女将さん(東京都台東区) | コワイハナシ47

女将さん(東京都台東区)

私の恩師である俳優の須藤為五郎さんの体験談である。

ある晩、一日の仕事を終え布団にもぐり込んだ為さんは、疲れのせいもありすぐに深い眠りに入っていった。

どれくらいの時間が経ったのか。

自分の頬に誰かの手が触れる感触で目を覚ました。

見ると、上に誰かがのし掛かっている。

どうやらそれは女性のようなのだが顔ははっきりとは見えない。

女性は為さんの頬をゆっくりと撫で「為ちゃん」と囁き、唇をあてると、

「愛してるよ」

そうつぶやいた。

しわくちゃの手で、しゃがれた声だった。

為さんは下町生まれの下町育ちで、しょっちゅう浅草界隈の食堂や飲み屋へ通っている。人当たりが良いので、定食屋、中華料理屋から鮨屋まで、多くの場所へ顔を出しては人の輪を大切にしていた。

そんな数ある飲食店の中で一軒だけ、為さんにとって母親のような存在の女将さんがいる飲み屋があった。

「たぬき」という、洞窟のような内装の炉端焼き屋だ。

私も何度かそこへ連れて行ってもらったが、そこの女将さんはとにかく人の好き嫌いがはっきりしていて一見さんはまずお断り、気に入らない客がいれば帰してしまう。

ところがきちんと会話をしてみると情が深く、仲良くなれば家族のように人を大切にする、絵に描いたような江戸っ子気質だ。おそらく当時六十代くらいだったように思う。

為さんはその女将さんのことを愛情込めて「たぬきのババア」と呼んでいた。女将さんも為さんにそう呼ばれることを喜んでいた。

女将さんが日に日に痩せていくのが気になりだしたのは、今から六年ほど前だ。店に行くたびいつものカウンター席でタバコをふかし、しゃがれた声で、

「いらっしゃーい」

と言うその声も、あまりにも痩せているせいで痛々しかった。

それからしばらくの間、私は店に行く機会がなかったのだが、一年ほど経ったある日、為さんから連絡があった。

「この間、不思議なことに、たぬきの女将がうちに来たんだよ」

と言う。

「でもおかしいんだよな。だって真夜中に寝てる俺の布団に乗っかって、キスしてくるんだから」

女将さんは為さんに何度もキスをして「為ちゃん、為ちゃん」と言い続けたそうだ。

やがて朝になり、為さんはひとり布団の中で目を覚ました。

(なんだ夢か。そりゃそうだよな。女将、入院中だもんな)

布団でぼんやりしていると携帯が鳴った。

たぬきの女将さんの息子さんからだ。

「母が危篤なんです。夜中に母が何度も『為ちゃん、為ちゃん』て言ってたんですけど時間も時間だったんで今にしました。最期に会いに来てやってくれませんか」

すぐに病院へ向かったがベッドに横たわる女将さんの意識はすでになく、会話をすることもできなかった。

為さんは女将さんのやせ細った手を取ると、自分の頬に当て「昨日、俺んところに来たもんな」と話しかけた。その手の感触は、眠っている為さんの頬を撫でた何者かの手の感触と同じだった。

「ありがとう。会いに来てくれてありがとう」

為さんは女将さんの最期を看み取とった。

その後、息子夫婦が継いだ「たぬき」に毎週通い続け、必ず女将さんがいつも座っていたカウンターの端の席で一杯だけ飲んで家に帰るのが日課となった。

残念ながら居酒屋「たぬき」は二〇一七年に閉店してしまった。

為さんは、今でも浅草へ行くとそこには女将がいて、しゃがれた声で「いらっしゃーい」と言ってくれそうな気がするのだそうだ。

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