百目鬼(栃木県 宇都宮市塙田) | コワイハナシ47

百目鬼(栃木県 宇都宮市塙田)

二〇一〇年に定年退職をした東野さんが、宇都宮市の商事会社に勤めていた昭和後期。三十歳前後の御体験だ。

上司に松平さん(仮名)という方がおり、この人はとても温厚で、時には程良く厳しく職場を律してくれる良き上司なのだが、酒にはめっぽう弱く、飲みの帰りによく東野さんが面倒を見ていたそうだ。松平さんは笑い上戸で酔って笑う姿も見ていて気分の良い人なので、どんどん酒を注がれてしまう。

ある日も酔って千鳥足の松平さんをタクシーに乗せ、家まで送った後で自宅に帰る事にした。帰る方面が近いという事もあって東野さんの役割となったそうだが、松平さんは酔っても質の悪い感じにはならないし、普段の頼り甲斐のある姿とのギャップがまた微笑ましく、愛すべき上司と思っていた為、帰りのタクシーで松平さんと話すのがまた楽しみなくらいであったという。タクシー代はいつも松平さんが出してくれた。

車中で松平さんに「いつもすまないねえ」と謝られつつ、他愛ない話題で談笑をしていると、松平さん宅前に着いた。

素朴でこじんまりとしつつも品のある古い家で、瓦のついた門がまた素敵だ。東野さんは松平さんと同様にこの家を見るのが好きだった。

いつも家に着く頃には歩けるくらいに回復しているので、松平さんがタクシーから降りてそのまま帰るだけだったのだが、この日の松平さんは上手く歩けないくらいに酔ってしまっていた。一足早く降りて松平さん側のドアに回り込み、松平さんに肩を貸して門の前まで導くと、急に下を向いて黙ってしまった。

うわ、吐くのかな? と思いつつも「大丈夫ですか?」と声をかけると、

「嗚呼~、嫌だなあ……」

「え? どうされました?」

「すまないねえ……やっぱ俺にしか見えねえのかなあ……」

「今日は飲みすぎてしまいましたね、大丈夫ですよ。何も見えませんよ」

「すまねえすまねえ……俺には見えてるんだよ……」

今日は随分と変な酔い方をしてしまってるなあと思っていると、松平さんは一人でしぶしぶ門の戸を開け、灯りのついた家に入っていく姿を見て安心をした。たまに見かける奥さんが介抱してくれる事だろう。一体何が見えていたのだろうと気にしつつも、東野さんは再びタクシーに乗り、帰宅した。

それから数日後、また飲みの席の帰りにタクシーで松平さんを送った時の事。

「松平さん。そういえば先日、おうちの前で何か見えるって言ってたけど何が見えていたんですか?」

「……そうか、俺あれの事言っちまったか……」

「あれからたまに思い出して気になっちゃうんですよ、教えてくれませんか」

「だめだ、あんなの人に言うもんじゃねえ。すまないけど忘れてもらえるか」

思わず「はい」と承諾をしたが、これまたこんな松平さんの言い方は初めてなので、とても気になる。それからお互い無言になり、珍しく居心地の悪い思いをしながら松平さん宅に着いた。

松平さんは下を向いたまま、

「いつもすまないね、それじゃ……」と言って下を向いたまま門まで歩き、こちらを振り向かず「じゃ」といった感じに手だけをこちらに見せ、戸を閉めた。

そこそこ酔ってたと思ったが、今日は随分ちゃんとしているが、どこか他人行儀だ。

この余所余所しさが、何かを隠しているような気がした。

それからというものの、松平さんは飲む量も控えめになり、タクシーで送ってくれなくて大丈夫と言うようになって東野さんは電車で帰る日が増え、何とも言えない思いを抱えた日々を過ごした。

しかしある日、松平さんが出社してこない……。

前日はとくに変わった様子はなく、少なくとも会社関係で酒を飲みには行っていない。そして、電話をかけても出ない。忙しい職場は一日何とかなったが、無断欠勤などする人ではないので、とても心配な気分で仕方なく、帰りに上司と松平さん宅へ赴いた。

すると上司が「うーん、この門かあ……」などと呟いて眺めているので、何の事ですかと聞いてみると「いやあ、それが変な話でさあ」と、奇妙な話を語り始めた。

「松平が入社と同時期ここに越してきた時に酒の席で聞いたんだが、遅い時間に帰ると自分の家の門に目が沢山見えるっていうんだよ。それと目が合うと寝床の壁にも見えるようになって、お経唱えてると消えるんだけど、それでも決まって夢にも出てきて魘されるっていうんだよ。変な話だろ?」

東野さんは生唾を飲みながらも、もう一つ気になっていた事を聞いた。

奥さんはどこへ行ったのだろうと。

「え、松平は独身だよ」

……おかしい。東野さんが松平さんを送り届けた時、女の人を何度か見かけた覚えがあり、それで独身とは全く思っていなかった。彼女、という事だろうか。その事を上司に話すと、とても驚いていた。

松平さんはそのまま行方が分からなくなり、件の女性も現れない。警察沙汰になったのだが翌日、森にいた松平さんが保護された。まるで認知症のような状態で、まるで別人のようになってしまい、そのまま会社に来る事はなかった……。

東野さんは何度か松平さんのもとへ訪ねたのだが、日によって「すまないねえ」と只管謝られたり、ひどく無口だったりして、そんな松平さんを見るのがとても悲しかった。

それまで存在を知らなかった松平さんの兄弟や親戚もよく訪れてるのが分かり、度々居合わせた弟さんと仲良くなって安心してしまい、その間に結婚をした東野さんはいつしかお見舞いに行く事は殆どなくなってしまった。

……それから暫くして、松平さんは亡くなった……。

病名はよく覚えてないとの事だが、何やら脳の感染症で脳炎を起こしていたとの事。

それで幻覚を見ていたのかもしれないな、と上司と話していたが、後に会社へ挨拶に訪れた松平さんの弟さんと話した際、とても気になる事を聞いた。

先ず、松平さんが家の門のところで沢山の目を見たという話は聞いていたものの、それが死後に見つかった日記にも記されており、この家に住んで間もない若い頃、既に見ていたという。それはもう二十年以上前なので、直近の脳炎で見ていた幻覚なら、何だか辻褄が合わない。「目」が現れるのを恐れていたにもかかわらず、その事が何度も書かれている。

そして、もう一つ気になるのが、弟さんは葬儀の受付をしていた際に見た名前。見知らぬ女性が芳名帳に「百目鬼」という苗字を記したというのだ……。

気になる名だったので、会社の人でしょうかと尋ねられるも、そのような名前の社員はいない。参列者は家族と会社の人以外には心当たりがなく、てっきり会社の人かと思っていたそうだ。東野さんも気になり、髪型や顔立ちの特徴を聞いてみてその時に思い出したのだが、確かにその女性を葬式で見かけていて、東野さんはご家族の誰かだろうと思っていた。しかし、思い出せば思い出すほど、以前酔った松平さんをタクシーで送り届けた際に玄関前に出て来た「奥さんだと思っていた女性」と似ている気がしてきた。

もし、お付き合いしている身であったなら、何故、行方不明時や療養時に顔を出さなかったのか。弟さんにその話を振ってみると、それが本当によく分からない事で、松平さんはどういう訳か女っ気が全く無く、弟なのにお付き合いしている女性の話をした事がないし、日記にも出てこない。東野さんから聞いた「家で待っていた女性の話」が信じられないくらいだという。

そもそも、目が出るという門を含めあの家は何なのか尋ねてみたところ、元々は松平家の祖父のもので、いくつかの家を持っていた為、兄弟や身内に与えられたものであり過去に何があったかは分からない。ただ気になるのは、庭の大きな石。これは元々無かった筈で、いつの間にか庭にあった為に、生前松平さんに聞いたところ長岡百穴古墳の辺りからわざわざ人に頼んで持ってきたと話していたそうだ。その時は知らぬ間におかしな趣味を持ったものだと思ったそうだが、目を沢山見るという話を聞くようになってから、無視出来ない存在だったという。何故なら、長岡百穴古墳には百目鬼という鬼の伝説があるからだ……その「百目鬼」は百の鬼を従える鬼の長のような存在だったが、鬼の世界に嫌気が差し、本願寺(宇都宮市塙田)で仏門に帰依する事で人間に生まれ変わる事が出来たという話だ。

他にも平安時代の宇都宮市にいた藤原秀郷という武士が〝百の目を持った刃のような髪の鬼〟を退治した話や、宇都宮市の塙田には様々なパターンの百目鬼伝説が残っており、地名や人名にもなっていて、些か尋常ではない。江戸時代中期の妖怪画で有名な鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では何故か、両腕に沢山目が付いた女の姿として描かれているのだが、鬼と人の中間のような姿に思えるのは筆者だけだろうか……。

松平さんの葬儀にも現れた謎の女性の名、百目鬼どうめきは実際に北関東を中心に分布している苗字で、単に「轟とどろき」と同じく、川などの音を表現した名という説があるのだが、わざわざ鬼の名にするなど、実に奇妙である。

松平さんが見ていたという沢山の目。百目鬼という名の女性。そしてわざわざ庭に持ってきたという、百目鬼伝説のある地の岩……松平さんが何に執着し、どんな状況にあったのかは不明だが、弟さんの所感では何かに取り憑かれていたとしか思えない、との事だ。

……少し蛇足となるが、松平さんの見ていた沢山の目というのは、百目鬼というよりも妖怪「目々連もくもくれん」に近い点が気になる。先ほども挙げた鳥山石燕の『今昔百鬼拾遺』に描かれており、主に障子に沢山の目が浮かび上がる姿で描かれているのだが、松平さんの見ていたものと似ている気がする。

心霊は兎も角、妖怪なんて人の創作だよ……筆者も昔はそう思っていたのだが、よく考えてみて欲しい。霊という存在がいる前提があるならば、という仮説的考察。

霊は何故「見える」事があるのか。何故、生前の姿をしているのか。「物質としては終わった存在」が、以前の姿で人の目に映る。それは、「記憶やイメージが形作る世界」である事を示唆しており、イメージが視覚化する世界であるならば「人である事を捨てた存在」もしくは「元々人でない霊」がいた場合、そこに姿形の制限などあるだろうか。

そしてそれは逆に、「人」の形になる事が出来るのではないだろうか……。

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