階段(神奈川県相模原市) | コワイハナシ47

階段(神奈川県相模原市)

櫻井さんは若い頃、相模原の米軍寄宿舎近くに猫と一緒に住んでいた。

「安いマンションがあったんスよ。まあ、マンションと言ってもこれがボロボロの老朽物件でして」

三階建てで各フロアに同じ造りの部屋が三室ずつ。広さはいずれも1Kである。

そして、各階の出入りにはマンションの外壁に張り付いた年季の入った鉄製階段を通らねばならない。内階段はおろか当然エレベーターもない。

「これがまたうるせえ階段でしてね。誰かが歩くとマンションの壁全体がミシミシ言うんですよ。あれ、よく崩壊しなかったなと思う」

あまりにも階段を歩く足音がうるさいので、隣近所の住人の帰宅時間や出勤時間が筒抜けだった。部屋にいると、階段を上り下りする足音──歩き方の癖と、階段を下りてドアを開けるまでの歩数で、どの部屋の住人が出入りしたのかまで把握できた。

「あー、今日も帰ってきたな、とか今日はいつもより遅かったな、とか」

熟睡していても起こされるほどだったというから、よほどうるさかったのだろう。

あまりにもうるさいのだが、せめてもの対策は玄関のほうに足を向けて寝るくらい。

「北枕とかどうでもいいよ!って感じで。でも多分、僕の足音も他の部屋の奴は同じように思ってたんじゃないですかね」

櫻井さんの足音も筒抜けになっていたのだが、これを帰宅の合図と思ったのか、帰宅すると愛猫のマポが玄関で出迎えてくれるのは嬉しかった。

住めば都のこの部屋に愛猫と櫻井さんの二人で身を寄せ合うように暮らしていた。

ある夜のこと、布団の上に転がって猫とともに丸くなっていると、階段を上る足音が聞こえてきた。

うつらうつらしていたのだが、一瞬目が覚めた。無意識に足音に耳を欹そばだててしまう。

(……一……二……)

いつもと時間は違うが奥の住人だろうと思っていると、足音が途中で止まった。

自分の部屋の前である。

来客には遅すぎる時間である。そもそも当時、この部屋に夜半に足を運ぶような知り合いもいなかった。

耳を澄ますとドアの向こうからくぐもった話し声が聞こえた。

「てとたちっちと……はーっ……」

ああ?

「つてちたとつ……はーっ……」

唇をすぼめてタ行だけで会話をすると、概ね似た雰囲気になる。

〈はーっ〉というのは呼吸音のようなのだが、歯医者が治療に使うブロワーの噴き出す圧搾空気の噴射音にも似ている。

聞いたことのない言語だし、もちろん何を意味しているのかも分からない。

面倒くさくなってそのまま寝てしまおうかと思っていたところ、事態は変わった。

「おおう……おおうえええええ」

突然、大声が聞こえた。

絶叫というより大げさな嗚咽おえつである。

それはドアの外からではなく、玄関の内側から発せられていた。

ドアが開いた形跡はない。

眠気は吹き飛んだ。

ドアの前に人の形をしたものが立ちはだかっているのが見える。

家電の発する幽かな明かりに浮かび上がったそれは、何かを背負っているように見えた。

顔ははっきり見えないが、どうやら男であるようだ。

櫻井さんの足下の先に突っ立ったそいつの、右の脇腹辺りから別の声が聞こえた。

「あうあ」

それは背負われている者が発した声だった。

背負われていたのは、くの字に身体を折り畳まれた男であった。

彼の全身にこびりついた血は生乾きで、右腕は肘から先がもぎ取られているのか見当たらなかった。頭蓋は割れていて、歪いびつにめり込んだ頭皮の隙間から内容物が溢れている。

力なくだらりと揺れる手足からして、そいつが生きているようにはとても思えなかった。

背負われた男の声が、先ほどより大きく聞こえた。

「あうあ」

背負っていたほうの男が、玄関からこちらに向かって一歩足を踏み出していた。

室内に上がり込む。

胸が締め付けられるように苦しくなった。

近付くたびに心臓を握り潰されるような苦しみが激しくなっていく。

あともう一歩で櫻井さんの布団の端に届くところまで来た。

と、そのとき彼の視界を〈白い雑巾〉が過ぎった。

愛猫のマポが、櫻井さんを踏み越えて男達に飛びかかっていったのだ。

瞬間、一気に身体が軽くなる。

そして、階段を下りていく足音が遠くに聞こえた。

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