東京の西武池袋線沿線に江古田という町がある。
学生街として鳴らした古い町で、駅を中心に三つの大学が集まり非常に賑やかだ。
斯く言う作者も青春時代を過ごした町で、色々思い入れもある。
あの商店街のあの店は昔心霊写真が撮れたところ、あの踏み切りは毎年数回人身事故が起こるところ、あの居酒屋の急な階段では段の途中で足を掴まれた人が後を絶えない、あの小路のあのテナントは恐ろしく回転が速くて、張り切って開店した店舗が瞬く間に潰れるところ……。
仕事柄、概してそういう思い出ばかりが多くあるわけなのだが、長年住んでいたとはいえ町の噂の全てを網羅しているわけではない。このため、「昔こんなことがあってね」という未知未聞の話を伺う機会はまだまだある。
今はもうないのだが、その昔、北口にビデオレンタル屋があった。
ブルースシンガーとして渡米修行中の滝口氏がまだ学生だった頃、この店でアルバイトをしていた。
学生とサラリーマンと地元の親父が佃煮になったようなこの町の夜は遅い。
ビデオレンタル屋の仕事は学生の他に仕事帰りの社会人も相手にしていたので、日勤よりむしろ夜勤のほうが多かった。
夜のシフトに入っていた滝口氏は、レジ作業と返却テープの確認を終えて一息吐いたところだった。丁度夜の九時頃だったと思う。
踏み切りから伸びるこの通り沿いは、町の繁華街である西側、南側に比べると住宅街に近いせいもあって、まだ駅前の再開発と道路の拡幅工事が行われていなかった当時は若干寂れ気味だった。
ライブハウスやスナック、居酒屋、キャバクラなどが入り組んだ路地に軒を連ねる。
ビデオレンタル屋の隣は大きめのマンションがあって、奥まった半地下のテナントにキャバクラが入っていた。
そのキャバクラ前の路上が何やら騒がしい。
「何だァ?」
怒鳴り声と複数人のざわめきが聞こえる。
ガラス越しに覗くと、十人くらいの人垣ができている。
どうやら酔客同士が揉めているようだった。
一人は痩せぎすの四十男で、右手に瓶ビールの大瓶を持っている。
もう一人は小柄な男で、年齢は同じくらいだろう。
二人は口々に相手を罵り合っている。内容からするとキャバ嬢を取った取らないという下らない痴話喧嘩のようである。
周囲を固める残りの連中は野次馬であるらしい。
客同士の揉め事で店を壊されては敵わないから外でやれ、とばかりに押し出されたのだ。
夜風に当たって野次馬の衆目を集めれば少しは頭も冷える。そんなところだろう。
しかし、二人のいがみ合いは勢いを増すばかりで、収まる様子は見られない。
掴み合いになって店のガラスでも割られたらたまらない、と滝口氏は店の外へ出た。
「てンめェ!俺のレイちゃんにベタベタしてんじゃねェよ!」
「なっ、おまえこそっ」
「るせェんだよ、おめーは。このストーカー野郎が!」
何分酔っ払い同士の詰りあいであるから、内容は大したことは言っていないのだが、この舌戦については小男のほうに分があるようだった。
マシンガンのように次々に繰り出される多種多様な罵詈雑言に、痩せぎすのほうはまるで応戦できていない。
恐らくこの二人、普段は仲の良い飲み仲間なのであろう。小男は、痩せぎすの外見に対する嘲り、言葉使いや口癖を真似ての嘲りなど、恋敵のコンプレックスを知り尽くしており、次から次へと誹謗中傷を投げつけ続ける。
饒舌に続く罵倒の限りに気圧されて、痩せぎすは明らかに言葉負けしていた。
だが、不意に様子がおかしくなった。
酔いと怒りで上気していた顔は、つい最前まで赤黒い黄土色だった。
その顔色から血の気が引いていって、今は白みがかっている。
怒りに震えて歪ませていた表情も消え、能面のように無表情だ。
これは、乱闘の始まりなのでは──。
そう思った次の瞬間、痩せぎすは小男に掴みかかっていた。
左腕で小男の首を抱え込み、自分の鳩尾みぞおち辺りに引き寄せる。
藻掻く小男は一瞬、身体を強張らせた。
それまで罵りあいを眺めていた野次馬達も、これはまずいと気付いたのだろう。
「おいよせ!」「やめろ!」
「誰か警察呼べ!」
口々に叫んで痩せぎすを止めようとするのだが、痩せぎすは気に掛ける様子もない。
そして次の瞬間──鼾を掻き始めた。
ンゴッ。ゴゴガッ。ゴガーッ。ゴガーッ。
通常の呼吸音ではない。洟はなを啜っているようでもない。
鼾である。
痩せぎすは目を見開いたまま、深い眠りに落ちているかのような鼾を掻いている。
「なっ、何すんだよ!」
小男は突然の攻撃と、抱き込まれたままで聞かされる痩せぎすの鼾に、何が起こっているのかわからない風だった。
何か仕掛けてくるのでは、と身を固くする。
痩せぎすは小男の警戒を挑発と受け取ったのか、その首を掴んだまま身体を振り回した。
その動きは何とも不自然だった。
素人が演じる人形浄瑠璃、或いは不慣れな演者によるマリオネットといったところか。
カクンカクンと項うな垂だれる定まらない首。
およそ力が入っているようには思えない据わらない腰。
手足に至っては、背後から黒子か誰かが掴んで動かしているようにすら思える。
不謹慎ながら、一番近いのは落語「らくだ」に出てくるカンカンノウの舞だろうか。
死体を動かして舞を舞わせるあの噺が思い浮かぶ。
カクカクとした足取りのまま、痩せぎすはビール瓶を振り上げた。
このとき、痩せぎすの視線は定まっていなかった。
抱え込んだ小男の頭に凶器を振り下ろそうというのだから、憎き標的を睨み付けていそうなものだが、痩せぎすは自分が狙いを定めた小男の後頭部とはまったく別の空間を見つめていた。
乱闘の最中によそ見をしているようにも見えた。
そして、カンカンノウの間もビール瓶を振り上げてからも、ずっと鼾を掻き続けていた。
相当に激しい動きをしているはずだが、呼吸が乱れる素振りはない。
ゴガーッ、ゴガーッ、という鼾だけが規則正しく響く。
そして、凶行に及んだ。
「や、やめろおおおお!」
躊ちゅう躇ちょなく振り下ろされたビール瓶は、幸運にも小男の右耳を掠めて地面に落ちた。
それでも凶行は止まず、痩せぎすは砕け散ったビール瓶の破片に手を伸ばそうとする。
さすがにそれ以上はいけない。
そこに間一髪、野次馬の通報を受けた二人の警官が駆け付けてきた。
痩せぎすは即座に羽交い締めにされた。
ゴガーッ、ゴガーッ……んがっ。
ほんの二~三秒だったと思う。警官に引き剥がされた直後、例の鼾が寝息に変わった。
痩せぎすは殆ど抵抗せず、そのまま腰から崩れ落ちた。
急に力を失った痩せぎすに全体重を掛けられた若い警官は、思わず怒鳴りつけた。
「おい、立て!立ちなさい!」
「えっ、あれ?」
痩せぎすは、キョトンとして顔を上げた。
何が起きたのか分からない、という表情だ。寝入り端を起こされた子供のように、周囲の状況が理解できないでいる。
飲み友達の小男の怒気と怯えの混じった表情の意味も、地面で粉々になっているビール瓶の破片の意味も、自分が何故警官に抱き留められているのかも、分からない。
「何ですか、これ」
「いいから交番に来なさい!ちょっと話を聞かせてもらうよ!」
喧嘩騒ぎの呆気ない幕切れに、見物人は三々五々に散っていった。
それから暫く経った頃。隣のキャバクラに勤める顔見知りのキャバ嬢が、出勤前に返却テープを持ってビデオレンタル屋にやってきた。
「毎度。そういや、こないだの店の前の喧嘩、大変だったね」
滝口氏が軽い気持ちで労うと、キャバ嬢はうんざりした顔で言った。
「ああ、あれね。もうね、お店としては大損害よね」
二人の間柄がどうなったのかは知る由もないが、やった側もやられた側もミソが付いた店には気まずくなるから来なくなる。
それで大事な常連が二人消え、更にはキナ臭い噂に尾鰭が付いて、店の客足が寂しくなる。飛んだとばっちりである。
「でもねえ、しょうがないのよあそこ。よくあるんだ、そういうこと」
キャバ嬢の口振りからすると、どうも他にも騒動があった様子だ。
「前から喧嘩とかトラブルが多くてさ。皆、最初から仲が悪いわけじゃないし、ウチくらいのお店だと客を狂わす魔性のキャバ嬢がいるわけでもないのにさ。だけど、何だか些細な理由で喧嘩になっちゃうらしくて。あの二人なんか、怪我も軽く済んだんだからいいほうよ。前の店長のときなんか大変だったんだから」
前の……そういえば、あの騒動より前に、一度店長が替わっていた。
「前にもあったんだよねえ。客同士の喧嘩。そのときは、片方が包丁振り回し始めちゃって。それで、前の店長が危ない危ないって止めに入ったのよ」
ところが、カクンカクンと定まらない動きの酔客が振り回した包丁が、店長の胸に突き刺さった。
丁度、半地下の店から出て地上へ上がる階段の真ん中辺りだった。
店長は自力で階段の最上段まで登り切ると、路上──丁度あの痩せぎすと小男が騒動を起こした辺りにばったりと倒れ込んだ。
「テンチョーッ!ってね。その日、出勤してた子が店長を介抱してたんだけどさ、店長凄い出血で血まみれなのに、ンガー、ンガーって鼾を掻いてたんだってさ」
結局、前の店長は助からず、息を引き取る寸前まで大鼾を掻いていた。
なるほど。
新しい店長はその惨事を知ってか知らずか、自身やキャバ嬢や他の客への被害を避けるため、言い争いが始まった時点で痩せぎすと小男の二人を店の外に追い出してしまったのだろう。
ところでこの半地下テナント、他にも「強盗が入って数人殺された」「また強盗が入った」「前とは別。また強盗が入った」と、やたら強盗が入った噂が流れる場所でもある。
最近は足遠くなっていて今はどんなテナントが入っているのか分からないので、近いうちに確かめに行こうと思う。
江古田の定点観測ポイントの一つとして。