平将門の胴塚と巡礼(茨城県坂東市) | コワイハナシ47

平将門の胴塚と巡礼(茨城県坂東市)

東京大手町にある平将門公の首塚は、京都でさらし首になった将門公が故郷の下総の国めがけて飛んで行こうとして、降りた場所とされている。

近くの兜町は、将門の兜が落ちたことから兜神社ができ、それが発祥とも言われる。多くの怪奇を残す将門公の怨霊だが、ひとつは、戦死した敵将の首を分断し、さらし首にすることは当時初のことだったこともある。

神田大明神は将門公を祀る神社であることも有名だ。その神田の名前も、将門の胴塚を祀る坂東市の神田山の地名も関係する説もある。

西暦九〇〇年頃の平安時代は、怨霊を怖がった。さらし首もしてしまい、さすがに怖くなったのだろう。怨霊を恐れ、胴体も切り刻んでしまった。

そのバラバラの遺体を京都から東国に運ぶ際に、奇怪なことが起きた、という歴史書もある。

謎の多い話であるが、実際の将門が愛した坂東市を訪れたら、違う印象になるだろう。重税に苦しむ農民のために、戦った英雄である。

八万大菩薩の名のもとにやってきた巫女から『新皇』と名付けられ、地域の人々にとっては輝く存在であった。将門が桓武天皇の子、高望王の孫にあたることから、確かに朝廷から見れば危険人物どころか、新しい朝廷が東国に独立して作られたら大変なことになる。その影響力は大きかった。

西暦九四〇年、二月十四日に平将門は戦死する。農繁期もあり部下の農民たちを仕事に戻していた折だったので、多勢に無勢だったようだ。

しかし、二月には米も作らないかなり寒い時期ではあるが……。

国王神社では将門公の三女・如蔵尼が、父の最期の地に庵を建てたのが神社の創建であり、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」をご神体としている。一度盗まれたが、取り返し、しっかりと鍵の付いた場所に保管されている。

将門公への信仰は篤く、氏子も多い。小さな林の中にひっそりとたたずんでいる。木々が敷地内に乱立し、子供ならここで鬼ごっこやかくれんぼをしただろうな、と思う雰囲気だ。そして誰かが潜んで立っているような気になる。

僕がこの神社の境内に入ると、相当な寒気が走る。

この寒気はおおよそ霊気であるが、かやぶき屋根の社殿の前に立つとさらに霊気で震えがくる。この現象がいつも変わらない。

その日は社殿の掃除をされ祈祷の準備があるようで、社殿の扉が開き、開放的だった。中にいた女性に話を聞くと、

「ここは以前は開けっぱなしにしていたら、色々盗む人が増えたんで、お賽銭箱も中に置いてるんですよ」

とのことだった。僕の寒気の話をすると、

「そうですか、小さい時からここに来てるからわからないけど、たまにいますよ、ここを通り過ぎたときに異様な霊気を感じたので来ました、とか」

同じように、何かを感じてこの神社に立ち寄る人は多いようだ。

この神社の近くに将門公の菩提寺がある。大昔は一緒だったが、明治の廃仏毀釈から神仏を切り離されたとのことだった。

将門公の菩提寺は延命寺である。真言宗豊山派で、この近隣では「島の薬師さん」という名称で親しまれる。入ると池が石橋を渡ると、赤カブトのようなお堂が見える。このまわりに、史跡として、営所や石井の井戸、九重の桜がある。

この裏手になる飯沼には、地元の人しか知らない『消えた花嫁』という怪奇伝説がある。

将門公の本妻と姫が、追っ手が来た時に沼の船に隠れ潜んでいたが、見つかり殺されてしまった。

当時は将の妻子も男女問わず皆殺しだったのだろうか、側室も殺されている。

その後時を経て、飯沼を埋め立て、田んぼにした。

江戸時代になり、花嫁がその田んぼにいた際に、ふと、まわりが振り向くと、花嫁が頭にかぶっていた笠だけが残り、体はどこにもなかった。

花嫁が突然煙のように消えてしまった。

実は、元は沼だったので大きな底まで抜ける穴があったのか、体がずっぽりと埋まり、落ちてしまっていたのだそうだ。もちろん生きて戻れなかった。

この沼は妻子の怨念として語り継がれた。

また、将門が影武者(人形)を使っていたため、本人の特徴(こめかみが動くのが本物)と敵の藤原秀郷に密告したのが側室の桔梗と言われる。

そのため、桔梗の花は疎まれ、この地では花が咲かないと言われている。

また、九曜の家紋は将門公の家紋であるため、見た目がキュウリを輪切りにしたものに似ているので、キュウリは食べない、敵の軍勢が千葉の成田山で祈祷してから攻めてきたので、成田山新勝寺には行かない、など古の言い伝えを守る人々もいる。

将門公を怖がってでなく、愛しているから言い伝えを守っているのだ。

胴塚のある神田山延命院にも足を向ける。真言宗智山派になるので、延命寺とはまた違う。胴塚には将門山という古墳の名前が記されている。敷地内の中央にあり、社殿の裏手になる。

立ち寄ると、国王神社の数倍の寒気がした。

「ああ、ここに来いということだったのか」

頭の先から足の先までしびれ、なぜか涙が出た。ちょうど南無阿弥陀仏の石碑の近くの結界で起きた現象だ。

いつものように僕は自撮りで自分の顔を写す。

霊気のバロメーターになるからだ。

驚いたことに、右ほほに見たことのない古傷のようなものが縦に入っていた。

雷に打たれたような衝撃のしびれは、今までに感じた霊的エネルギーを超えていた。ここには傷ついた高貴な人が眠る。暴いてはならない場所だ。

胴塚の前に立つ。

手を合わせた墓碑があり、自然に手を合わせた。

その後ろの記念物の木の間からは、さんさんと太陽が煌めく。荘厳な魂がここにあり、まだ潰えぬ無念をも感じる。いつしか曇り空は晴れ、鳥たちがさかんにさえずった。まわりには六地蔵が立ち、穏やかな空気が流れている。

「いつか将門公の首と胴を繋げることができればと思います」

と手を合わせて願うだけで、また涙が落ちた。この地は、将門公の末裔、相馬氏の神領であり、今までも墓をあらされることはなかった。

将門公の体は、千年以上の時を刻み、故郷の静謐の中にたたずむ。

取手市には桔梗御前の塚もある。将門公が砦をつくったことから、とりで→取手という地名になったともいう。

古書によると、桔梗御前の生まれの群馬県太田市に将門公の遺体を運ぶとき、遺体が勝手に暴れだしたので、取りやめ、桔梗の出生の村では惨事が続いたので、さらに塚を作ったという説もある。

この場所には僕一人で行った。僕が買った車は白馬のように白く早く走り、将門公が白馬に乗ってこの下総国を自由に走り回っていた姿が偲ばれた。

県南は大穀倉地帯であり、筑波山が遠くに見え、地平線が見える最高の関東平野だ。彼が残した村人たちが作り上げた開墾の賜物だ。

襲撃の時、領地の農民の兵を集められなかったのではなく、呼ばなかったのではないだろうか。将門公は、自分の命を引き換えに、この地で働く人々を残した。戦闘に加えたら、きっと皆殺されてしまっただろうから。

埼玉からほど近いこの地域は、利根川を渡る難易度があるが、当時は江戸川が利根川であり、今ほど大きな川ではなかったという。

最後にこの県境の川を越えたときは、もう公の命はなかったが、魂はいつもこの大地に輝いている。家紋の九曜紋は惑星の天体、宇宙をあらわす。

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