片野城と太田道灌(茨城県石岡市) | コワイハナシ47

片野城と太田道灌(茨城県石岡市)

太田道灌の四代後の岩槻城主の太田資正は、太田道灌をとても尊び、猛将だった。しかし、側室の次男を跡取りにしようとしたため、息子と家臣のクーデターで城内を締め出された。岩槻の入り口すべてを封鎖し、一度仕事のため外に出たお父さんが、家に入らせてもらえず、去るしかない状態だったと言うとわかりやすいだろうか。北条の傘下になろうとする息子を父親の資正が反対したため、政策の違いで追い出されたともいわれる。

資正は有能な武将には変わらなかったので、その後佐竹氏の客将となり茨城の片野城に住み生涯を終えた。二度と故郷に戻ることなく。

今は石岡市の田園に小さな五輪の塔があるだけだ。

石岡市にある片野城が、太田資正の居城であったことは知るところだが、その太田氏が元はどこの武将だったか、太田道灌の四代跡目だったことをご存知だろうか。

芳林寺の方丈、河津氏の話である。

太田道灌を祀る寺として名高いが、五代目の岩槻城主と母の銅像も境内にあったが、太田道灌の銅像を作ろうということになった。

東京の楠木正成像並みに馬に乗った猛々しい姿。岩槻の象徴ともいえる銅像であった。太田道灌は江戸城も作った有名な勇将。

そして茨城の佐竹氏の客将となった、悲劇の四代目が石岡市の片野城に住み、愛息の次男、梶原政景は柿岡城に移り、共に国人の小田氏攻めを成功させた。

現在柿岡城址は柿岡小学校に石碑が残るのみとなっている。

河津氏は、寺に銅像まである五代目の母子と違い、片野城に追放された資正にせめてあいさつに行こうと考えた。特にこの資正が道灌を愛し、崇拝していたこともあるからだ。

石岡市の田畑の中にある石碑や五輪の塔、城跡を拝み、

「太田道灌公の銅像を岩槻にて建てますので、どうぞお許しください」

のような内容で墓所にあいさつをした。

盛り立てた岩槻城には、生涯戻れなかった資正のことを考えての行動だった。

平成十九年の落成式の時、檀家さんを集めて銅像の横の敷地で、一流料亭からの食事を並べ、いざ食べようというときだった。

青空が急変して雲が沸き上がり、雷と共に大豪雨、大嵐になってしまった。大急ぎで料理を片付けたが、式典は台無しになってしまった。

これはやはり何かの祟りがあるのでは、と河津氏は心配した。しかし、関係者からこう言われた。

「これは神様からの啓示で、何か良きことが起きる前兆のようなものだ」

と言われて安堵したそうだ。

その四年後、東日本大震災が起きた。本堂は崩れ、大変な被害になったが、この道灌の銅像だけはびくともしなかった。

震災の直後は、埼玉の上空の北に真っ暗な雲が現れた。

このとき、奇怪なことが起きた。

境内にある無縁仏の墓石を集めた場所の一番上に大きな観音様がいる。

それが首だけぐぐっと北を向いたのだ。石像がひび割れもなく、北の方角に顔を向けたのである。

また、境内には六地蔵があったが、それも倒れた。首も折れて生首のような地蔵首が落ちていた。

不気味なことに、体は別方向に倒れているのに、地蔵首の顔はすべて北を向いていた。

北はまさに震災が起きた方向でもあり、津波の起きた茨城の沿岸部を向いていた。震災が起きた時刻から約一時間後、あの悪夢のような大津波が起こった。北で起きる更なる惨事を予知していたのだろうか。

太田資正は洞察力に長けており、北条氏の無血開城を秀吉に進言した。

果たして進言した通りになった。もしや資正は、自分の行く末も予知できていたのかもしれない。茨城の地で生涯を終えることも。

片野城跡 八郷地区根小屋の中世の平山城である。主郭(本丸)は三メートルに及ぶ土塁に囲まれており、そこを中心として曲輪が南北六百メートル以上にも連なる巨大な様相を残している。城内には堀や城の出入口で戦争時には激戦区となる虎口、城内から打って出るときに馬や兵を集合させる馬出しと思われる遺構も存在する。

城主で最も著名なのは太田資正であろう。県指定文化財の八幡神社「排禍ばやし」や市指定文化財の七代天神社「代々神楽」を奉納したのも彼といわれている。

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