皆殺しの村~小生瀬村伝説(茨城県大子町高柴) | コワイハナシ47

皆殺しの村~小生瀬村伝説(茨城県大子町高柴)

大子町の国道を袋田の滝の方面に走り、山道を抜けてさらに国道461号線を通り小生瀬の十字路を超えると左側に『地獄沢入り口』の看板が見える。

その立て看板の道を上がり、道なりに進むと数軒の大きな農家の屋敷が見える。細い道をそのまま進むと、元の国道に戻ってしまう。どうしてもたどり着けない。再度、道なりの最初の屋敷の住民に話を聞いた。

「すみません。地獄沢へはどういけばいいでしょうか?」

九十歳を超えるおばあさんが軒下に座っていたので道を聞いた。

いつものようにプロ同行者の会田さんも一緒だ。絵に描いたような、にこやかな普通の雰囲気なので、相手が警戒しないのはうらやましい。

僕だとギラギラとした好奇心の目を見抜かれて、相手が警戒するのがオチだ。

「地獄沢はこの前の道を行った先だよ。もとは田んぼやってたから、今はもうやってねえから藪だらけだから誰も行かねえよ。バスの観光もここまで来るけどその先まではいかねえ」

小生瀬村の人たちが逃げ込んで、長老が命乞いの嘆願をしたのが嘆願沢、その次に首塚、胴塚、殺した刀を拭くため洗った刀拭沢と物語のように地名が残っている。

逃げ込んで隠れていた村人を全員皆殺しにした奥地の沢がある場所が『地獄沢』である。

しかしおばあさんは意外なことを話し始めた。

「隣の小生瀬の人らが逃げ込んできたんだけどよ、だーれも助けてやれんかったんだ。役人にたてつくわけにはいかねえし……助けてくれって、最初はこの家に頼んでこられたんだそうだけど、家に入れんでなあ」

「えっ、ここは小生瀬の村じゃないんですか?」

「違うよ。ここは高柴の部落だ」

「ということは、隣村の人がここに助けを求めてきたんですか?」

「そうだよ」

僕は少し混乱した。ネットや小説などで読むと、「小生瀬村の避難場所として逃げ込んだ沢まで追いかけた水戸藩の足軽たちが、袋小路になった地獄沢で無防備な農民を皆殺しした」という定説ができていたからだ。

「ここは高柴部落、その逃げ込んだ沢は、小生瀬の土地じゃないんですね? 避難場所としていたんじゃないんですね?」

「だって、ここは高柴の土地だもの。それにそこの沢はもともと田んぼだったんだよ、小さいけども。その奥がそうだって言われてるけど、この前まで田んぼにしてたっぺ」

となると、隣の村人がとにかく逃げてこの地域に入り込み、田んぼしかないような沢なら身を隠しやすいと思ったのだろうか。

「わしらはここに嫁に来てるから詳しくは知らねえけど、逃げ込んだ人らはみんな殺された、小生瀬の村の人はずいぶん減ったって話だ」

「全滅と聞いてたんですが、残ってはいるんですね?」

「少しは残ってたんじゃねえかね」

衝撃だった。皆殺しと聞かされていたが、古文書にもそういう明記があったが、それを書いたのはその二百年後くらいであり、史実から当時の寿命でいけば四代あとの人が書いたことになる。

つまり、この皆殺しの村自体が、みんな殺されたわけじゃない、でもあるし、すぐ隣の高柴部落では死人はいないわけだ。

「実はネットでの噂では、小生瀬村の住職が役人の手引きをして、この沢を案内したという話があるんですが、ご存知ですか?」

「そんなのは知らねえなあ」

道をはさんですぐ隣村の住人が知らないことは、伝説とは違うことなのかもしれない。生き残った数名が、村人を死に場所に案内したことになっているのかも。そのとき会田さんが面白いことを言った。

「海生さん、もしもですよ、村人が皆殺しになってるならお墓もないってことですよね。誰が墓守りをしたんでしょうね」

確かにそうだ。お墓もなく、首塚、胴塚とバラバラの村人の遺体を埋めた場所がこの先にあるわけだが、そこをお墓として終わらせているはずはない、なぜならここは隣村の敷地しかも田んぼがあるような利用価値ある土地なのだから。となると小生瀬集落の墓は全滅後の後にしかないのだろうか。

そもそも村を全滅にしたら、土地を耕す人がいなければ検地のあとの米が作れない。十月十日という、稲刈りが済んでいる時期に狙いを定めたのは、小生瀬の収穫した新米ごと取るつもりだったのか、推理は尽きない。

話を聞いていると、おばあさんが

「お茶も出さねえで済まねえなあ。干し芋があっから、持ってくか?」

と、自家製の干し芋を取りに中に入って、ラップに包まれた数本入りのあめ色のおいしそうな干し芋を持たせてくれた。

大きな母屋と納屋のある農家の作りで、苗字を見るとこのあたりの地主さんのような気がして言った。

「この辺りの農地を全部耕すのは大変そうだけれども、小作人を使って作業されていましたか?」

「そうだね、人を雇ってた頃もあったね」

やはり、江戸の昔からの地主さんに間違いなさそうだ。

「だけど、気をつけてな。奥までいくととても歩けるとこじゃないし、藪だらけで誰も行かん。観光のバスなんかも来るけど、だいたいここまでで帰るみたいだから。奥は蛇なんかも出るから気をつけてな」

「ありがとうございます。ちょっと行ってみます」

優しいおばあさんは、笑顔で見送った。

そして、我々が家の敷地を出たあと、背中越しに窓を閉める音がした。

干し芋は会田さんが持ってくれて、いよいよおばあさんに教えてもらった道なき道を行く。

曲がりくねったアスファルトの小道でなく、坂道を上った先の空き地をまっすぐ林の方に向かって歩く。

元田んぼというだけあって、湿り気の多い雑草の短く刈られた道が、僕の歩みを止める。地層がそのまま見えた高い崖と迫りくる雑木林の圧迫感。

高台を歩いているはずなのに、低地を歩いているような感覚になる。

奥に井戸があり、建物らしいものはそれくらいしかなかった。この位置からさっきの家があるほうを見ると、向こうがやや高台になっていて、もし稲穂があればしゃがんでいれば道から見ることができないだろう。

十月十日の稲刈り後なら、稲穂に隠れることができないわけだ。

その時に沢の方向を背に自撮りをした。これが一枚目の写真だ。

後でよく見ると、光が差した後ろに、モンペを着た農作業服のような女性や男性が立っている。古い家族写真のように、複数人が僕の方を見て立っている。

僕の目にはその霊は見えなかったが、写真に写っていたから間違いない。

この時の状況は、前日からあった左の首の痛みに加え、武者震いなのか寒気のようなものをひんやり背中に感じていた。

いよいよススキの穂に藪だらけの場所に出た。足元は相変わらず湿り気があり、落ち葉に敷き詰められてより深く足が沈む。

これより先は、まるで鉄線のように藪が垂れ下がり、軍手や登山用の恰好でもしていないと、ダウンコートにブーツとジーンズくらいでは、進めるものではない。そして何かとても足元が不安だった。

どこかのタイミングで大きな穴があり、落ちてしまうんじゃないか、という予測不可能な土のやわらかい感覚だった。

ついにここまでか。背丈以上もある藪が通せんぼをするのと、足元の不安、そしてあと三十分後に予定していた本山寺へのアポ。

ぐいぐいと進んでいた僕の足が止まった。

「海生さん、どうします? これ以上は行きます?」

ふいに会田さんが声を掛けた。彼はいつも僕の後ろをついてくるスタイルだ。

「いやあ、どうしようかと思ってね。次の予定もあるから……本山寺まではここからどれくらいかかりますか?」

「混まなければ三十分ですかね」

「じゃあもう行かなきゃ……ここまでかな。今、どれくらい来ましたか」

スマホのグーグルマップで位置情報を出そうとするが、全く反応しない。さっきの道ある道ではきれいに出たのだが……どこまでの奥地に行けたのかわからない。沢ならば小川が流れていなければおかしいのだが、見渡す限り荒野と、戻るか進むか以外は崖と林に囲まれて、逃げようがないような場所だ。

「電波が弱いみたいですね。本山寺に行きましょう」

写真を撮っていると、首の左側だけ痛かったのが、右側まで痛くなった。重力がかかるというか、新幹線などに乗ったときにかかってくるような痛みだ。耳なりもしてきた。車酔いのような症状だ。

ここだけ重力が1Gでなく1.5Gくらいあるんじゃないだろうか。

振り向いて話していると、会田さんが言った。

「海生さん、顔が変わりましたね」

「今ですか? どうなりました?」

「顔がまんまるになってます」

慌てて自撮りの写真を撮った。霊気ボルテージの高さを計るときは、自撮りをしている。時空が変なのか、顔が伸びたり曲がったりして写るという特徴がある。

その時の写真がある。確かに顔がまんまるに腫れている。

持ってきた二連の本サンゴの数珠を手にはさみ、手を合わせた。普段は手を合わせない。それは容易に手を合わせると、霊が頼りたくてしがみついてくるからだ。しかし手を合わせずにはいられない場所では、こうして数珠を間に入れて祈る。

その後、向かって歩く会田さんの写真を見るとここまででやめようと思った先に、立って見ている霊と、紋付のような着物を着た人が座っている霊が崖に写っていた。

後で航空写真を見て気づいたが、その場所こそ嘆願沢のようだ。その先が首塚だろう。

ほかの霊能者の先生に見せると、とんでもない怨念のにらんだような顔が見ている、これから先に行かなくてよかったね、と心配をされた。足元にはたくさんの生首が転がっているとも言われた。また、会田さんが見つけたのだが

「海生さんの横顔を撮ったんですが、頭が二つありました。これが顔に憑いた霊かもしれません。顔に憑いたから、丸くなったんじゃないでしょうか?」

言われてみると、自分の中に変化が起きたのは肩から上だ。

肉眼では見えなかったが、白昼からこれだけの写真に写りこむのは、めったにない。とんでもない霊気と怨念の土地だと感じる。

その後、本山寺に行くまでの間、どうしても調子が悪くなっているので、何か食べようとコンビニで買って食べた。コンビニもかなり走って一軒程度だ。

少し元気になって本山寺で住職と話していたら、会田さんが言った。

「不思議ですね~本堂のお線香の煙が、ぜーんぶ海生さんの方に漂うんですよ。エアコンが入ってるのかなと思ったけど、それならもっと奥に行くしね。煙たくなかったですか?」

と言うのだ。確かにやたらお線香の香りが強い寺だと思っていたが、自分にすべて漂っていたせいか。

「あとね、帰ってから気づいたけど、あの日の海生さんの食欲は以上でしたね。一日一緒にいて三回も大盛で食べてましたよ」

多分、あの沢で「寺に行く」と言ったので、供養されたい人々が僕についてきて、食事もしていったのだろう。線香の煙は供養されるときと、除霊のときに効用があるという。

そして餓鬼霊(供養されない霊)の供養、施餓鬼では、供え物として食べ物が置いてある。本山寺の本堂では手厚く、たくさんの食べ物が置いてあった。

それと、高柴の農家で受け取った干し芋も意味があると感じた。

道を聞いた初めて会う旅人に、食べ物を渡してくれる高柴の集落の人々だ。

そして、四百年も昔のことなのに、助けられなかったことを悔やんでいる。

いくつかのパズルのピースがそろうように、歴史の謎も解けてみえた。隣村に逃げ込んだ小生瀬村の人たちをかくまうわけには政治的にもできなかったが、田んぼの奥の沢に逃げ込めば、真っ暗で逃げることもできる。

夜明けになり、ほとぼりがさめたら、食事を渡すこともできるし、しばらく隠れることもできるから「そっちに行け」と案内したのかもしれない。確かに行き止まりのような場所だが、とにかく広く、真っ暗な夜にこの場所にいた全員が四百人だとしても、戦車でも使わないかぎり、白兵戦で全員を刺し殺すというのは不可能だ。

もしかすると、隠れ切り、夜が明けて生き残った人々はいたのではないだろうか。そして、時々食事を差し入れていたのでは?

生き残った村人は感謝し、後々高柴の人たちが悪く言われないように、生きていない人間、裏切り者の住職がいて後に村人に殺された、という話をでっちあげたのではないだろうか。裏切り者も殺されたら、事実を伝える人がいない。

僕の推理が間違っていなければ、ここで全員殺されたという話が逸話として残ることで、当時の新参者の徳川家が権威を保てるのと、その後に増えた百姓一揆に対して、見せしめになるような地獄の逸話をさらに盛った、そして時期を曖昧にしたのは、村人惨殺の話が大きくなりすぎて、誰がこの地を知行していたか責めに合わないように、昔話は昔話だとしたかったのではないだろうか。

徳川頼房が初代藩主になるが、その前の藩主の時にするほうが好都合でもあるからだ。

今、これを書きおろして、本当に肩の荷が下りた。ここまでまとめるのにこうも苦労したことはない。本当の供養は、優しい言葉をかけるわけでもない、心によりそうことでも、おいしいものを代わりに食べてあげるでもない。

亡くなった人々の声を聴くことだ。それを生きた証として記すことだ。

一六〇九年(一六一八年)十月十日の夜、かねてより問題があった小生瀬の村を水戸藩士が襲撃した。年貢の取り立てによる役人を殺したことが引き金だが、当時は関ヶ原の戦が終わり、徳川家が統治のために従来の領主の佐竹氏を秋田に移封したころだった。

この地獄沢に逃げた住民たちを次々と殺し、女子供まで虐殺した。

首が転がって、それを埋めた場所は『首塚』と言われ、切り裂いた胴の部分を埋めたのが『胴塚』血や肉で汚れた刀を洗ったのが『刀拭き沢』であり、長老たちが住民を殺さないよう嘆願したのが『嘆願沢』である。

当時は領民も百姓といいながらも土地を持ちながら領主の戦闘に加わる、半農半士でもあった。江戸時代の『士農工商』の順位、農民の位が高いのは土地を持つ意味合いも含めて、高かったようだ。

佐竹氏の秋田まで着いていくとなると、土地持ちの武家は百姓として従来の土地を守り耕すことに従事し、大半は水戸藩の領民になったようである。

幕末の天狗党の乱のように、内紛が起きたのはこの皆殺しの村の村人の怨霊がそうさせた、という説もある。

読者の皆様はどう思うか。

僕は、佐竹氏の家臣と徳川家の家臣との家の格と役が、長年変わらないものであれば、維新目前に時代が変わるとなれば、当然起きた下剋上的な意味合いでの内紛ではないかと思うが、怨霊であればそれもまた興味深いところだ。

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