山野夜話(抄)第一夜(東北地方) | コワイハナシ47

山野夜話(抄)第一夜(東北地方)

夏暑く、冬寒い。東北地方のとある山間部に、佐竹さんは今現在一人で暮らしている。

真夏の灼熱地獄や真冬の深雪が当たり前のこの場所で、彼は普通ではない出来事を数多く体験している。

今年で齢九十を迎えるが、現役時代は山奥の分校で教職に就いており、最終的には校長の地位にあった人物である。

年齢の割には屈強な体格で、若い頃とほぼ変わらないと思われる体型を今でも保っている。

「まんず、煙草でも喫のんでけろ。順々と話してけっから、なァ」

皺だらけの面輪が一気に破顔した。それを合図に、彼の体験談が始まりを告げる。

「ンだずなァ。これには目がなくてなァ」

佐竹さんは赤ら顔をしながら、まっすぐ前に伸ばした右腕を釣り竿に見立てて、勢いよく振り上げて見せた。

「このあだりだどなァ、岩魚いわなよりも山女魚やまめのほうが若干多く釣れっぺずなァ」

一般的な渓流では上流に岩魚、下流に山女魚といった具合に棲み分けがなされているが、この辺りは両者とも棲んでいるようであった。

「まんず、こっちのほうにも目がなくてなァ」

そう言いながら、彼は右手に持った見えない盃をクイッと呑む仕草をした。

「山女魚は塩焼きも好ぎだげど、やっぱりウルカに勝るモノはねえべなァ」

ウルカとは、塩辛のことである。魚の内臓を塩漬けにしたもので、酒の肴に滅法美味い。

「まァ、そんな訳で調達しに行ったわけだずなァ」

所々に白い部分が残っているものの、地面のあちらこちらから若芽が芽吹いている。

目の前に時折落ちてくる細雪を気にも留めず、佐竹さんは足下に流れる渓水に視線を移した。

山頂から融け落ちてくる雪代も大分収まってきたらしく、比較的穏やかな流れになっている。

そんな透明度の高い水の中を、ぬらりと揺らめく黒い影の存在を見逃さなかった。

「餌ぁ?餌は川虫以外に使ったごどねえなァ」

川虫とはカゲロウやトビケラの幼虫のことで、ヒラタ、ピンチョロムシ、クロカワムシ等、様々な種類がある。

渓流釣りの良い点の一つとして、餌が現地調達可能なこともある。

佐竹さんはいつも通りに餌を採集するべく、川底に沈んだ拳大の石をその場でひっくり返し始めた。

川下には左手で柄を握りしめた網が待ち構えており、石の下から流れてくる川虫が即座に捕獲されるといった寸法である。

より一層効率を上げるべく時折川底を足で掻き混ぜながら、次から次へと石をひっくり返していると、左手に持った網に予想外の重みが加わった。

「そつけなごどあったわけだがら、まんず慌てだわげであってなァ」

左腕から伝わってくる小気味よい躍動感から、大山女魚か大岩魚でも入り込んだと思ったのも致し方あるまい。

彼は嬉々として網の柄を両手でしっかりと握りしめると、一気に空中へと水揚げした。

「……んだず。ものの見事にかぶだれくったずなァ」

『かぶだれくった』とは、誤って水の中に入ってしまうといった意味である。

つまり、佐竹さんは慌てふためいて、腰を抜かしてしまったのであった。

それもそのはず。青い網の目の中に入って暴れていたのは、大魚ではなかった。

まるで藻のような長い髪を振り乱した、無精髭で覆われた、青年の生首であった。

その首は網から逃れようとしたのか。まるで鯉のように口をぱくぱくと開閉しながらも、生気を失った眼は空に存在する何かを睨め付けていた。

長靴の親玉のような腰まである胴付長靴を装着してはいたものの、水底に尻餅を突いてしまっては意味がない。

次々に浸水してくる雪代の混じった冷たい水を下半身に感じながらも、彼の動きは止まったままであった。

漸く我に返り、緩慢な動作で網で暴れている代物を清流に戻した。

すると生首はまるで水を得た魚のように、頭部を幾度となく揺らすと、長い黒髪を不気味に蠢かしながら、下流へ向かって流れていった。

「まァ、こつけな所だがら。ああいったごどもあっぺなァ」

妙に納得したように幾度となく頷きながら、佐竹さんは酒を取りに台所へと向かっていった。

山野夜話シリーズ

山野夜話(抄)第二夜(東北地方)

山野夜話(抄)第三夜(東北地方)

山野夜話(抄)第四夜(東北地方)

山野夜話(抄)第五夜(東北地方)

山野夜話(抄)第六夜(東北地方)

山野夜話(抄)第七夜(東北地方)

山野夜話(抄)第八夜(東北地方)

山野夜話(抄)最終夜(東北地方)

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