「長いことこつけな場所に住んでっとなァ、色々なものが見えてくっごとも仕方がねぇんだずなァ」
佐竹さんの右手には愛用のコップがあり、開封したばかりの冷酒がなみなみと注がれている。
本日既に四、五杯目だろうか。彼の頬は既に赤みが差しており、両の眼も心なしかどんよりとしている。
そろそろできあがってきたらしく、彼の饒舌さに勢いが付いてきた。
「こつけなものはどうだべ。あれは……もう二十年も経ったかも知んねえなァ」
佐竹さんは仕事が終わると、学校の裏にある小さな山へと向かっていた。
大分日が長くなったせいか、夕方の六時を過ぎてもまだ明るい。
だが、日暮れが間近なことに間違いなかったので、彼は歩みを早めることにした。
十分も歩くと、高い木々に囲まれた小さな沼が見えてくる。
水面の所々で〈もじり〉と呼ばれる水紋が多々見られた。
それら魚の反応には見向きもせず、佐竹さんは目印にしていた大岩の辺りまで歩み寄った。
地面には棒きれが突き刺さっており、そこにはナイロン製のテグスらしきものがしっかりと結わえてあった。
彼は慎重な手つきでテグスを掴むと、ゆっくりと手繰り寄せていく。
「んだず。ビンドウだなっす」
ビンドウは陥穽漁具の一種で、昨今ではペットボトルでも簡単に自作可能な漁具である。
中に餌を入れて、寄ってきた魚が中に入ってしまうと、なかなか外に逃げることができなくなってしまうといった罠の一種であった。
「いい型のフナでも入っていだら良がったんだげどなァ」
満を持して引き上げた罠の中には、ウシガエルのオタマジャクシが大量に入っており、その全てが呼吸ができなくなったらしく息絶えていた。
佐竹さんはがっかりしながら、水面にオタマジャクシの死骸をぶちまけた。
「もごしぇかわいそうげっども、こればっかりは仕方ねえべなァ」
そのとき、オタマジャクシとは異なる生き物が、死骸と一緒に水面に落とされた。
最初は、でっかいイモリにしか見えなかった。
ぬらりとした黒い皮膚に紅い腹は、イモリに違いない。
だが、顔だけが違っていた。それは両生類とは異なって、まさしく人間の顔が付いていたのだ。
とにかく美しい女性のような顔立ちであったが、そこから下は両生類のそれであった。
慌てた佐竹さんはその生き物を右手で掴もうと試みたが、その不気味な生物は恨めしそうな視線で彼の顔を一瞥いちべつすると、勢いよく沼の中へと潜っていった。
「……っふぅぅぅぅぅ」
ここまで語ったところで、佐竹さんは大仰な嘆息を漏らした。
「こっから先はなァ……思い出したくもねえんだげどなァ」
渋る佐竹さんを何とか説得したところ、次のような話を聞き出した。
気持ちの悪いモノを見たせいで、暫くの間呆然としていた。
やがて落ち着きを取り戻すと、至る所から何者かに見られているような感覚に襲われた。
直じきに暗くなってしまうので、一刻も早くここから立ち去りたい。しかし、いつの間にか身体の自由が利かなくなっている。
さら、り。さら、り。さら、り。
何か軽い物体が、あちらこちらに落ちてくる音が微かに聞こえてくる。
さら、り。さら、り。さら、り。
次から次へと、何かが落ちてくる。
そのとき。
右上腕部に、鋭い痛みが走った。
辛うじて動く眼球を精一杯スライドさせて、痛む箇所に視線を移した。
綺麗な緑色に擬態しているカマキリがいた。その蟷螂の鎌が、彼の皮膚をしっかりと掴んでいる。
一見何の変哲もない、何処にでもいるような昆虫に違いなかった。
しかしその頭部は、触覚と複眼のある三角形の普通のカマキリのものとは異なり、そこにはまたしても人間の顔が付いていたのである。
その瞬間、身体の自由がいつの間にか戻っていることに気が付いた。
佐竹さんは慌てて右腕に乗ったカマキリの化け物を叩き落とすと、その場から逃げ出そうと試みた。
勢いよく後ろを向いて、一気に駆け出そうとした、そのとき。
彼の視線が、地面にいる異常な集団を捉えた。
それは、大量のカマキリであった。しかも皆、人間の頭が付いているではないか。
少年から老人の顔まで、満遍なく人の顔がこちらを見ているが、そこには何故か女性の顔はなかった。
「何で女子はいねぇんだべ、なんて馬鹿なこどしか考えられなくなってしまってなァ」
山野夜話シリーズ