「そういえば、大分昔にこつけな話もあったずなァ」
大分酔いも回って上機嫌になったのか、時折小唄を唄いながら、佐竹さんは若い頃の出来事を語り始めた。
佐竹さんの自宅から十数分歩いたところに、大分前から住人を失い、廃墟になっている一軒家があった。
小さな林に囲まれているせいか、日中においても何処となく近寄り難い雰囲気を醸し出している、すこぶる陰鬱な建物であった。
どのような人達がそこで生活を育んでいて、そしてどのような理由で去っていったのかまでは分からない。
ただ、その建物自体が相当に朽ち果てていたことだけは確かである。
用事があってやむなくその場を通った佐竹さんは、唐突に聞こえてきた女児の悲鳴のようなもので足を止めた。
耳を澄ましてみると、確かに悲鳴が聞こえてくるではないか。
しかも、目の前に佇んでいる例の廃墟の中から、その声が聞こえていることは間違いない。
持ち前の義心が制したのか、近寄りたくない気持ちは何処かへ吹き飛び、幼女を助けるべく廃墟へと向かって走っていった。
背の丈ほどにも節操なく育った雑草の間を縫って到達した玄関の扉は。既にぼろぼろに朽ち果てていた。
佐竹さんは用心深く辺りを見回しながら、ゆっくりと歩んでいった。
ところが建物の中に入った途端、何とも言えない違和感に圧倒されてしまった。
それもそのはず。
何故なら、荒廃した外観とは打って変わって、内部は清掃が行き届いた塵一つない状態に保たれていたのである。
高価そうな木製テーブルの上には、立派な御馳走が並べられており、味噌汁の入ったお椀や真っ白な御飯からは湯気が立っている。
それが目に入った瞬間、彼のおなかの虫が鳴り始めた。
これは、堪らん。我慢できない。
佐竹さんはふらふらとした足取りでテーブルまで近づくと、これらの誘惑に抗えなくなってしまったのか、お椀と箸を手に取った。
そのとき、である。
「だめっっっっっっ!」
物凄い大音量で、女の子の声が辺りに鳴り響いた。
佐竹さんは身体をびくっとさせると、思わず両手に取ったお椀と箸を落としてしまった。
舌打ちをしながら、慌てて足下に目を遣る。
するとそこには、既に朽ち果てて久しいお椀と箸の残骸らしき物体が転がっており、その残骸付近には夥おびただしい数の甲虫達の干からびた死骸が散らばっていた。
彼は一瞬身体を震わせると、すぐに自分の置かれている状況が理解できた。
落ち着いて視線を巡らすが、辺りに広がっているのは残骸のみである。
すぐ近くには朽ち果てた天井の板らしきものが落下しており、何処からか侵入した獣達の頭蓋骨や糞の類いで足の踏み場もないような状態であった。
佐竹さんの腹は決まった。
一刻も早くその場から立ち去ることにしたのである。
半ば走るようになりながら、朽ち果てた玄関先まで辿り着く。
そして一気に玄関を飛び出そうとしたとき、右手の袖口を掴まれたような気がした。
思わず足を止めて、後ろを振り返る。
そこには、泣き腫らした瞼が紅く腫れ上がった、おかっぱ頭の女児が佇んでいた。
真っ赤な着物に真っ白な皮膚が妖しく映える、端麗な顔立ちをした子供であった。
「……たすけて」
女児の口唇が動いて、確かにそう言った。
佐竹さんは何事かを言おうとして口を動かそうと試みたが、頭の中が真っ白になってしまって、一体何を言ったら良いのか分からない。
何かを察したのか、その女児は一回だけこくりと頷くと、その場から煙のようにすうと消えてしまった。
それを見るなり、佐竹さんは全速力で駆け出した。
ただひたすら走って逃げたが、何故か彼の目からは涙が止まらなかった。
「何だべなァ、あの女子は。もごしぇがったかわいそうだったけど、どうすることもできねえべなァ」
それから数年後に起きた大きな地震により、あの廃墟は跡形もなく崩れ落ちてしまったという。
山野夜話シリーズ