「おがしなごどって言えば、太郎さに起きたごどほど、訳がわがんねえもんもねえべなァ」
食後の一服を堪能しながら、佐竹さんは語り始めた。
「鉄砲ぶちの腕前だけは、大したもんだったんだげどなァ」
佐竹さんの自宅から車で数分の山の麓に、小さな藁葺き屋根の平屋があった。
そこは「鉄砲撃ちの太郎」と周囲に呼ばれている男の家であった。
太郎は無類の酒好きで、朝から酒の臭いをぷんぷんさせながら、山に獲物を狩りに行っていた。
始終酔っ払っていたせいか、周囲の人達との間でトラブルばかりを起こしている、鼻つまみ者であった。
しかし、「酒好き」といった共通項があったせいなのか、佐竹さんとは懇意にしていたのである。
猟が終われば佐竹宅を訪れて、鴨かもや猪、熊の肉をお裾分けに持参していた。
佐竹さんは肉類も大好物だったので、彼が訪れてきたときは秘蔵の美酒をよく振る舞ったものであった。
「鴨は特にうめえんだけどなァ。どうしても取り切れながった散弾がやんだずなあァ。ガリっとしてで……」
時折鉛玉の入った肉に苦笑いしながらも、佐竹さんは周囲の評価とは違って太郎のことをいつも気に掛けていた。
もうすぐ春の山菜が芽吹こうとしている、日の出前の真っ暗なとき。
周囲に分厚く降り積もった深雪が吹きすさぶ風音すら吸収したかのような、静かな朝であった。
「佐竹さ、いっがいいるかい?佐竹さ!」
突然、太郎が訪ねてきた。
ガンガンガンガン扉を叩いて、尋常な状態ではないことが一発で分かる。
まだまだ起床の時間ではなかったため、無理矢理起こされた佐竹さんは、寝惚け眼で玄関先までよたよたと歩いてきた。
「さ、佐竹さ。すまねえ。こつけな時間に。ホント、申し訳ねぇ」
蒼い顔をして息を切らせている太郎は必死で謝罪の言葉を口にしながら、半ば強引に家の中へと入ってきた。
「いやァ、寝てだわ。どうしだ、何があったんだべ」
なかなか頭がはっきりとしない中、コップ一杯の水を飲み干してから、佐竹さんは訊ねた。
太郎に視線を向けるが、明らかにいつもとは様子が違う。
「おらァ、もうダメがもしんね」
心なしか周りを気にする素振りを見せながら、太郎は殺気だった目でそう言った。
「ダメって、一体どういう意味だべ」
意味が分からずに、佐竹さんは呆けたような表情を見せる。
「おらァ、もうダメがもしんね」
佐竹さんの言葉なぞ耳に入ってこないかのように、紅潮した頬をより紅くさせながら、まるで壊れたレコードのように同じことを言い続けている。
「……しかだねべなァ、どれ。こいつでもやっつけて、最初から話してみでけろ」
佐竹さんは戸棚の奥から、秘蔵の大吟醸を取り出した。
「いやいやいや。今日はそんなつもりで来た訳じゃねぇがら……」
「まままま。まず、呑んでけろず。なァ」
珍しく遠慮する太郎を説き伏せて、二人は朝っぱらから酒を酌み交わし始めた。
他愛もない話をしながらちらりと太郎に目を遣ると、頬に赤みが差し掛かっている。
そのタイミングを見計らって、佐竹さんは訊ねた。
「んで、何がどうダメなんだべなァ」
「おらァ、熊撃ちに行ってたんだァ」
太郎は冬になって雪が深くなると、愛犬と一緒に山へ分け入っては熊を狩りに行くのを常としていた。
その日の天候は非常に悪く、山の奥へ行けば行く程、辺りには深い霧が立ちこめていった。
今日は諦めて下山しようかと思ったとき、愛犬が何かを見つけて威い嚇かくし始めた。
愛犬の睨む先には、一際大きな椈の木が聳えており、その下で結構な大きさの熊が何か獲物を貪り喰っている。
そしてその側には、一頭の小熊が分け前にあずかっていた。
太郎は愛用の散弾銃を構えると、母熊らしき真っ黒な物体に向かって、照準を合わせた。
銃自体は散弾銃であったが、中に入っている弾丸はスラッグ弾と呼ばれるモノで、一つの弾頭を発射するタイプである。
そしてその熊の心臓部へ向かって弾丸を撃ち込もうとしたとき、彼の耳元で此の世のものとは思えないような絶叫が鳴り響いた。
「きぃえええええええぃ、だか、くうぇえええええええぃ、だか、そんな声だって話だったなァ」
最早引き金を引くどころの騒ぎではない。太郎は慌てて声がした方向へ視線を遣った。
その瞬間、あまりの恐怖で身体が硬直してしまった。こんなところにいるはずのないものが、彼からほんの一間程先に立っていたのである。
「……童だった。まんず、間違いねぇ。真っ裸の童が突っ立って、おがしな声を上げていだんだ……」
我が目を疑うほど、真っ白な肌の少年であった。まるで周りの全てを覆い尽くしている新雪に同化するかのように、無表情で立ち尽くしている。
「おらァ、話しかけたんだ。何回も何回も話しかけたげど、その童は何も言わねぇで、そんで……」
思わず顔を顰めてしまうほど大音量の奇声を発しながら、彼の元ににじり寄ってきたのであった。
「おらァ、一目で分かっていだんだ。ありゃァ、人じゃねえって。絶対に、ただの童じゃねぇって」
太郎は遠くの熊を狙っていた銃を、その童に向けた。しかしその子供は銃口が向けられているのにも拘わらず、相も変わらず奇声を発しながら太郎の元へ歩み寄ってくる。
恐怖心が許容範囲を超えてしまったのか、彼は思わず引き金を引いてしまった。
ターンっ、といった乾いた音を発して、太郎の撃ったスラッグ弾が少年の頭部に命中した。
と思ったのも束の間、その少年の身体に異常はなかった。真っ白い身体で無表情のまま、生気のない眼を太郎に向けている。
だが、何故か彼の足下から、断末魔の哀れな叫びが漏れ聞こえてきた。
恐る恐る目を遣ると、愛犬が血塗れで横たわっていた。
鉛玉によって破壊された腹部から臓物をさらけ出して、夥しい量の血液を垂れ流している。
周囲を覆い尽くしている深雪はその全てを残らず吸収しており、苦痛に歪む犬の口から放出されていた湯気が次第に少なくなっていき、そして消えてしまった。
太郎はその場から走り出した。鉄砲も何もかも投げ捨てて、とにかくその場所から逃げ出したのであった。
からからに乾いた口腔内に溜まっている生唾に噎せながら、何度も何度も転びつつ下山したのである。
「おらァ、おっかなくて、おっかなくて。そんで……」
そこまで話したとき、太郎がいきなり右目の辺りを押さえ付けたかと思うと、もんどり打って床に這い蹲った。
「いでええ!いでええ!いでええ!いでええ!」
両足をバタバタさせながら、右目を押さえ付けたまま床を転がっている。
太郎が暴れる度に、とんでもない量の血飛沫が辺りに飛び散っていく。
その痛みが彼の限界を超えたのか、太郎はその場で仰向けになって昏倒した。
佐竹さんが駆け寄ろうとしたとき、それは起こった。
カッと見開かれた太郎の右側の眼球がもぞもぞと顫ぜん動どうすると、まるで中から押し出されるように浮かび上がってきた。
そして、ぽんっ、といった不気味で湿った音とともに、太郎の体液らしきものが飛び散ったのである。
「勿論、失明したんだずなァ。そんで、太郎さは……」
麓の町にある病院に暫く入院することになった。
しかし、ある晴れた日の午後にその病院を抜け出すと、そのまま行方不明になってしまった。
一体、彼が出会った少年は何者であったのだろうか。
そして、どうしてあんな目にあってしまったのか。今現在、何処でどうしているのか。
「誰も分がんねぇんだずなァ」
自分の無力さを残念がるような諦めの表情を見せながら、佐竹さんは呟いた。
山野夜話シリーズ