汲めども尽きぬタクシー怪談(茨城県) | コワイハナシ47

汲めども尽きぬタクシー怪談(茨城県)

東京に近い茨城県の、さほど大きくない町に住むベテランタクシー運転手の沖さんは、時折、

「客層が、わるい」

……と、直感することがあるという。といっても、乗り込んできた恰幅のいい中年男性が、実はヤの字のつく職業であるとか、こいつは乗り逃げしそうなやつであるとか、そういった客層のわるさを見抜くという意味では、ない。意味が、まったく違うのである。

『何て説明したらいいのか。霊感?ウーン、どうでしょうね……。別に、お客に何か憑いているのが見えるとか、そういうんじゃないんですけどね……』

タクシー怪談というのが一時、流行ったことがある。

たとえば深夜に流していると、女の客がタクシーに乗り込んでくる。一見して品のいい服装をした良家のお嬢さん風――なのだが、これが雨も降っていないのに………………ずぶぬれ、なのである。顔色も青白く、まるで病人だ。

時間帯も時間帯である。当時としては、こんな女性が出歩くのもおかしいのだが、それ以上に妙なのが、全身のあちらこちらから、

ぴちゃん。ぴちゃん

と、したたり落ちる水滴だ。

運転手は当然、怪訝に思う。何か事情があるのか。ひょっとしたら事故か犯罪に巻き込まれたのではないのか?

それで、それとなく質問してみるのだが、当の女性は小さな声で行き先を告げたきり、何をたずねても答えようとはしない。

車の駆動音がしているというのに、異様に静まりかえった車内。そのなかで、

ぴちゃん。ぴちゃん

と、水がしたたり落ちる音が、やけに響く。まるで耳元で落ちているみたいに、だ。

………………ぴちゃん!

運転手は車内の静けさと女性のふつうではない様子に、だんだん変な気分になってくる。一刻も早く、この客をおろしてしまいたいと、スピードのほうも物騒な境目を行ったりきたりする。

そうして、ようやく車が目的地につくと女性は、

「……持ちあわせがないから、家に入ってとってくる。ここで待っていてほしい」

などと言って、それなりに立派な家にスーッと入っていく。

で、それきりだ。それきり彼女は戻っては、こない。

一〇分待ち、二〇分を過ぎた頃。運転手はしびれをきらして家の門を叩く。そしてなぜか深夜だというのに、こうこうと明かりが灯っていて屋内も騒がしい様子の家から家人を呼び出して、文句を言う。すると相手は、こんなことを話し始めるのだ……。

「うちの娘は、ずいぶん以前から自殺未遂をくり返していましてね。それが数日前から、また家を飛び出してしまって。……ほうぼう捜していたのですが、ついさっき、海に飛び込んだ娘の遺体が発見されたと連絡が、あったばかりで――」

運転手は、それを聞いて愕然とする。そして視界を、ずぶぬれになった女の客の姿が、ぐるぐるぐるぐる渦を巻き出す。そうして耳元には、あの音がよみがえるのだ。

ぴちゃん。………………ぴちゃ~ん!

入った家では、すでに祭壇が設けられていて、遺影の顔が女性客の顔と同じであったとか。死因は自殺ではなくて事故や病死であったとか。ずぶぬれではなく、寝間着姿であるとか。あるいは客を拾った場所は病院や墓地であるとか。

多少の差異はあるものの、基本的にはこのような筋立ての怪談が流行った時期があったのだ。

つけ加えれば、この難に遭った運転手はそれから数日、高熱で寝込んでしまったり、はなはだしい場合は気がおかしくなってしまったり……。

『ああ。あの怪談。流行りましたね。もう、ずいぶんになりますねえ。ウーン。でも、私のね。客層の悪さはアレにちょっと似てるけど……違うんだな』

沖さんは、そう言う。

「乗ってくるとね、直感でわかるんですよ」

まず、時間帯は深夜とは限らない。沖さんも夜間のシフトが基本なのだが、宵の口もある。

『乗ってくるとね。あっ、きたな、ってわかるんですよ、うん。年齢とか性別とか、まったく関係ない。もう、ホントに直感でしてね』

見た目は、まったく問題のない真面目そうな青年が乗ってきたことがあった。夏場で、まだ残照が残っている時刻だったそうだ。沖さんが普段、客待ちをしている駅のロータリー付近も人通りが多い。……けれど。

『あっ、きた!って思いましたね。ウーン。こいつは客層のわるいほうだって。もっとも、いつもそうなんだけれど、どういうカンジでわるいかは、しばらくしないとわからない……』

青年は、町はずれの住宅街を告げた。正確には住所を番地まで告げたのだけれど、ここでは伏せておきたい。

『番地を言われてもねえ。郵便屋さんじゃ、ありませんからね。こっちも一軒一軒、町中の家の場所を覚えているわけじゃあ、ない。でもだいたいの見当はつくから、近くまで送ったら後は自分で捜してもらうってことにして……』

赤みがかった、黄昏時の景色のなかをタクシーは走り始めた。お愛想で何か言おうとした沖さんが口を開きかけたとき、青年がポツリと言った。

「この交差点。……以前、事故がありましたよね……」

「事故?」

まだ町の中心部に近い場所だ。言われてみると、そんなことがあったような気が、する。いや、これだけ交通量が多いと、ないほうがおかしいのだけれど。

「そうでしたかね?」

「そうですよ」

きちんとスーツを着て、きちんと背筋をのばして後ろの席に座っている青年は、感情のこもらない口調で続けた。

「三人。……死んでますよ。三人……ね。三人……」

沖さんは、バックミラーでチラリと青年の顔をのぞき見た。青年の視線は、まともに運転手の顔を――ミラーのなかの沖さんの顔を――凝視している。

やがてタクシーは、大きな踏切にさしかかって、いったん停止した。

すると、また青年が口を開いた。

「この踏切。……以前、自殺が、ありましたよね……」

『――他のことは、なんにもしゃべらない。口を開けば、あの家の住人は人身事故を起こしたことがあるとか、あの病院では先月何人死んでいるとか、そんなことばかりでね。どういうつもりかと思いましたね。適当に、でたらめを言って何のつもりかって。でもね、たしかにあたってるところもあるんですよ……これが』

事故。自殺。人死に。青年が口を開くたびに、沖さんは気が滅入っていった。

が、それと同じくらい怪しまずには、いられない。

なるほど。こんな郊外の町のできごとでも大事件や大事故なら、覚えている人間もいるだろう。たとえば全国紙に載るくらいのニュースであるとか。

けれど、青年の言う人死には、そのほとんどが地元の新聞はおろか、人の噂にもならないものばかりだ。

それをどうしてこんなに細かく指摘できるのだろう?

まるで不幸があったそれぞれの場所に、いつまでも薄れることのない痕跡でもあるかのようだ。

そう、ふつうの人間には目にすることができない――ふつうではない人間だけが目敏く見つけることができる、まがまがしい痕跡が。

誰もいない空間に向かってしゃべり続ける女性客

「……お客さん?」

「はい」

青年は、まるで教師に答える生徒みたいな声で、きちんと答えた。それがまた、どこか身なりに反して不自然であった。

「お客さん。……やけに、このあたりのことにくわしいようだけど。地元の人……?」

「いいえ」

相変わらず視線を動かさず、青年は言う。

「この町にくるのは………………初めてですよ。ええ、初めてなんです」

(だったら何で、そんなに、このあたりの事故だの自殺だのにくわしいんだ!?)

「初めてなんですけど、多いですね。あちらこちらと………………ここも」

青年は、何を言っているのだろう?何が、あちらこちらに多いというのか?

青年はそれきり、またきちんとした姿勢で黙ったままだ。沖さんのほうは、たずねかけた言葉を、やっとの思いで飲み込んだ。たずねてはいけないと、頭のどこかがしきりに訴えていた。

「………………」

窓の外の赤みが、薄暗さにとってかわられてゆく。沖さんは、少し前から感じていたものが今度は不安と、そしてそれ以上の何かに、とってかわられてゆくのを自覚していた。

『後はもう、その何とかいう住宅地の入口まで、なるべくバックミラーをのぞかないよう苦労しましてね。やっこさんのほうはというと、到着するまであちこちの場所の人死にを、ぽつりぽつりと言い続ける。こっちは、もう、返事もしないというのに――おかまいなし。まるで大学のゼミの講義か何かみたいに、生真面目に、あっちで一人、こっちで三人死んでます。死んでますね……って』

料金を告げる以外はほとんど無言で押し通し、やっと青年をおろして再発車した沖さんは、てのひらに爪が深々と食い込んでいることに気がついた。それほど緊張して………………ハンドルを握り続けていたのだった。

そう。沖さんの言う「客層のわるさ」とは、こういったしろものなのだ。

とても、一口では説明できない「わるさ」。そしてとどのつまり、説明というもののつけがたい「わるさ」。しかも、沖さんは直感で、そんな客がわかってしまうというのだから。

『ウーン。この不景気ですからねえ。お客を選んではいられないっていうのが、実情ですよ。そうでしょ?たとえ金銭抜きでも、あなたを乗せたら不快なことが起こりそうだ。いや、ひょっとしたらそれ以上の何か、とんでもないことになるかも知れないなんて――ふつう、言えやしませんよ』

少し遅い時刻に乗せた中年の女性客が、乗っている間中、後部座席いっぱいに響くかん高い声で話し続けたこともあった。

沖さんに、ではない。隣の、何もない――誰もいない空間に向かって、なのである。

化粧は少し派手ではあったけれど、水商売などとは縁のなさそうな……いや、それ以前に酒に酔っている様子など、ぜんぜんない女性であった。それが、しらふの顔つきで何十分も、そこにはいない連れに向かって、笑い、愚痴り、甘え、身振り手振りを交えて話し続けたのだそうだ。

『アレは、かなり怖かった。ほら、さっきの怪談の似たようなヤツを思い出してしまって。バックミラーを見たら、そこにはいない誰かが映りそうな気がして。ウーン。アレは、かなりキツかったなあ……』

それは――そうだろう。

『最近は、それでも少なくなりましたよ。最後のが強烈だったからかな?いや、虫酸が走るとは……あのことでね。文字どおり、ね。半年くらい前なんですけど』

座ったとたんに「きた」女

……駅から客を一人、町の北部にある集合住宅地帯に送り届けた帰りだったという。ちょうど深夜の時間帯、であった。通行する車の数も、まばらだ。

と、ヘッドライトに照らされた歩道の一角で、手をあげる人影があった。

若い――女だった。そう見えた。

素通りする理由は何も、ない。客を送り届けた帰途に客を拾える……ベストではないか。怪談話が流行っていた頃とは時代が、違う。今時、女性の夜歩きなど珍しくも何ともない。とはいえ夜遊び――あるいは夜の仕事からの帰り――にしてはたしかに、そぐわない場所ではあったけれど。

沖さんは車を歩道に寄せて、ドアを開けた。後から考えれば、そのとき、無理やりにでもドアを閉めて走り去るべきだったかもしれない。なぜなら、その女性客が無言で入ってきて後部座席に座ったとたん……「きた」からだ。

『いや。めったにないくらい強かったですよ。何ていうのかな。その、きたっ!!ていうヤツが。ウーン。あんまり強かったから、しばらくお客の顔を見るのが怖くって。バックミラーに目をやれなくて……』

やっとの思いで沖さんは、顔をあげてミラーを見ることができた。

若い女だった。最初にそう見えた、そのとおりだ。たぶん二〇代前半だろう。時刻も時刻だし、まわりは寝静まった住宅街。街灯と暗い車内の明かりでは顔かたちの細部まではわからないけれど――白色系の薄手の服装もとくに、おかしなところは何もない。荷物らしい荷物は何も携えては、いない。けれど、だから変だとは言えない。誰にも言えない……。

(顔色が悪いような気はするな)

けれど、夜の車内にいる人間の顔色は、光線の加減で大なり小なり悪く見えるものだ。先入観があれば、なおさらである。

肩のあたりで髪を切りそろえた女性客は、何ごとか言ったようだ。ちいさな細い声だった。行き先のようであった。町の中心部ではなくて、やや離れた郊外線の駅名に聞こえた。ここでは駅名までは明らかにはできないけれど。

(最終はとっくに出ただろうに。こんな時間に駅だって?誰かと待ち合わせでもしているのか?それとも自宅か知り合いの家がすぐそばなのか)

『考えてもしかたがないし。とにかく早く到着して、それで終わりってことにしたかったというのが本音でしたかね。なにしろ……「きた」お客でしたからねえ』

車は走り始めた。女性客は、おぼろげな明かりが後ろに流れてゆく窓に頭をもたせかけて、じっとしている。

「蒸しますねえ。今夜は」

「………………」

「ずっとこんな天気が続くとね。体がまいってきますねえ」

「………………」

沖さんは、夜の闇と例の直感とがもたらす緊張をほぐしたくて、何度かあたりさわりのない話題を選んで後ろの女性に声をかけた。けれども、返ってくるのは沈黙だけだ。

………………いや。そうでは、ない。女性は何ごとか答えているようだ。けれど、それがあまりにも細い、かぼそい声なので、聞きとることが、できないのである。

小さな――本当に、小さな声であった。小さくて、どこかに吸い込まれているみたいな声なのであった。

飛び散る大量の吐瀉物

やがて沖さんは、しゃべるのをやめた。本当の沈黙が車内を重苦しく占め始めた。

(まあ、いい。あと五分か一〇分の辛抱だ)

そう思って沖さんは、バックミラーをのぞいた。

そして――血の気が引いた。

『………………心臓がね。凍りつきましたよ。なぜかって?ミラーに誰も映ってないんです。後ろのシートに、いなけりゃ、ならない、お客の、姿が!』

キッ!ききききき――っ!!

沖さんは、反射的にブレーキを踏んでいた。歯の痛くなる音を伴って、車は路肩をこすって停まった。

『交通量の多い夕方だったら……確実に事故っていましたね。頭が混乱しちゃって。肩で息をして、ハンドルに顔を伏せて……どうしたらいいか、わからなかった。本当に、こんなことがあるんだな、とか。でも、いつか、こんなことが起こるような気はしていたな、とか。そんな脈絡のないことを考えていたような気は、します。そうしたら……』

ごそっ

と、後部シートで物音が、した。沖さんは、ぎくっとした。それでも勇気をふりしぼって、おそるおそる振り返ってみた。彼の耳に入ってきたのは、かすかな呻き声であった。そして目に映ったのは、体を折り曲げて苦しそうにしている女性客の姿だった。

『つまり――お客は煙みたいに消えちまったわけじゃなかったんです。ちゃんとシートにいたんですよ。何か理由があって、体を折り曲げて前に屈んだ格好になった。それをこっちが勝手に解釈して、幽テキ(幽霊のたぐいの意)だと思い込んでしまった……』

そんな姿勢のときに急ブレーキをかけられては、たまらない。女性はケガをしたのだろうか。頭でもひどくぶつけたのか。沖さんは、別の意味で真っ青になった。

「おっ、お客さん!すみません、大丈夫ですかっ!」

彼は、あわてて運転席から出ると、後部のドアを開けた。女性は体を折りまげたままだ。小さな声で何か言っているようだが……聞きとれない。

「すみません、どこかケガは……?」

びしゃっ!

彼女の足元で、大量の液体が跳ね散った。女性が……吐いたのだ。

びしゃあ~~っ!!

さらに大量の吐瀉物が、飛び散る。

(これは、いけない)

ただごとでは、ない。沖さんは、パニックに陥りそうになった。とにかく、病院だ。病院に連れていかなければ、ならない。警察沙汰になってもしかたがない。何もかも自分の責任なのだから。彼が、そう思ったときだった。

「………………ここで、降ります」

女性の声が、はっきりと聞こえた。それまでのようなかぼそい、小さな声では、ない。低くはあったけれど、男性のように太い声であった。

「えっ。で、でも――?」

目的地の駅まで、まだずいぶんある。あたりには民家が、まばらにあるだけだ。街灯もろくにないような場所なのだ。女性はどこかを打って、あらぬことを口走っているのだろうか。

「こんなところで降りるなんて――とんでもない―ちゃんと送りますよ。送らせてください。いや!それよりもまず病院に行ったほうが」

いずれにせよ、沖さんはプロの運転手として、こんな場所に女性を置き去り同然にするような真似はできなかった。けれど。

「ここで、降ります」

女性は顔をあげて体を起こした。車の天井を、にらみつけるような目つきであった。沖さんのほうを見ようともしない。それから彼を押しのけるようにして車外に立った。たった今まで体をくの字に折り曲げて、かぼそい呻き声をあげ続けていたのが噓のようだ。そして彼女は、そのまま歩き始めた。

ごく、ふつうの歩きかただった。ふらふらと揺れているわけでも何でもない。そうして、そのまま街灯のはざまがつくる闇のなかに、白い後ろ姿は消えていった。消えていってしまった……。

ゾヨゾヨゾヨゾヨゾヨゾヨ動きまわるもの

あとには何だか狐につままれたみたいな面持ちの沖さんが、残された。警察沙汰や病院沙汰。それに賠償金がどうのこうのという問題は、とりあえず遠のいたようだ。後のことはわからないが――しかし、これで本当によかったのだろうか?

『事故のとき、頭を打って言動と行動が一致しないって話、よく聞くじゃないですか。追いかけていくべきなんじゃないか?って、そう思いましたよ』

が、結果として沖さんは責任感から、その女性客を追いかけることはなかった。

なぜなら。

『追いかけようとして、運転席に戻る前に、ふと後部シートに目をやったんです。正確に言うと、女性客が吐いたものが溜まっている床のほうを。気が動転していて最初は確認しなかったけれど――血の塊とか吐いていたら、もう決定的ですからね?だから私は見直したんですよ。女の客が吐いたものを。アレを見直して。だから、私は……』

車内には、吐瀉物に特有の悪臭がこもり始めていた。しかし、そんなことに構ってはいられない。沖さんは、室内灯を明るくして、屈み込んだ。屈み込んで……。

「ギャッ!」

沖さんは、後ろにのけぞり、腰を地面でしたたかに打った。けれど、自分が見たものに視線は釘づけに、なっていた。自分の体が、わなないていることにもまったく気がつかないでいた。

後部シートの下にたまっていたものは、赤い水ではなかった。おびただしい鮮血が飛び散っていたわけでは、けっして――ない。

にもかかわらず、何が沖さんを、のけぞり倒したというのか。

彼は最初、それを米粒だと思った。黄色がかった液体のなかに、大量の米粒がまじっているのだと。しかし、違った。……違ったのだ。

米粒にも見える、白い小さな粒。その一つ一つは、動いて――蠢いていたのである。

………………蛆だ。

数もわからない、無数の生きた蛆虫。蝿の幼虫。それが、黄色い汁のなかでゾヨゾヨゾヨゾヨゾヨゾヨゾヨゾヨ動きまわっていたのである。

汚汁のなかにいたのは、それだけではなかった。

赤黒いヤスデが、ざわざわと動いていた。丸くなっているやつ、数えきれない節から伸びた脚で、汁をかきまわすやつ……。

ぞっとするほど大きなミミズも数匹、うねり、のたくっていた。

いやらしい虫たちが、汁をびちゃびちゃと、跳ねちらかしていた。

びちゃ。びちゃ………………びちゃん!

沖さんは、わけがわからなかった。

この大量の、おぞましい虫は、いったいどこから出てきたのだ?吐瀉物のなかにいるということは、あの女の客が――しかし、そんな、まさか?

「ウッ!」

自分の口のなかからも何かが溢れてきそうになって、沖さんは思わず口元を手でおおっていた。そして、あの女の客が去っていった方向を、飛び出そうな目で追ってみる。

あの女が闇のなかからスッと現れて、こちらに戻ってきそうな気がする。

………………こちらに。

沖さんは今も東京から、そう遠くはない町で、ベテランのタクシー運転手として働いている。

先の見えない不景気は、もちろん彼を苛んでいる。が、それ以上に彼の言う「わるい客層」と、自分の直感とに苛まれつつ。

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