本山寺と日立鉱山(茨城県日立市本山) | コワイハナシ47

本山寺と日立鉱山(茨城県日立市本山)

本山寺は、日立鉱山の中にある曹洞宗のお寺である。

この鉱山を「本山」と呼び、小学校や中学校も本山の名前がついていた。

昭和に閉山してからは、人口が減ってしまった。ここで働く鉱夫の家族が住むアパートが、何棟もあり、寺の前の道を上がった先も、たくさんの団地が何棟もあった。

しかし今のその場所は工業地になり、小学校や中学校、映画館や武道館、公民館などもすべて廃墟となり、建物自体も姿を消すと、現在の荒涼としたすすきや藪の野原が広がっている。

御岩神社を出たあとに、一本杉を見て、あちこち廃墟を散策したあと、本山寺の無縁仏を参ろうと境内に入ったとき、会田さんに異変が起きた。

石段を登りきった先に、古い卒塔婆が焼かれた跡があり、より不穏な雰囲気を見せる。さらに僕が奥に行こうとすると、

「えっ海生さん、まだ行くの?」

と会田さんが珍しく弱気の声を漏らした。

その瞬間、会田さんの首から肩にかけて、ガシンと人が乗ったような重みを感じていたのだそうだ。

霊感ゼロのプロ同行者&ドライバーの会田さんと評価していたが、このときばかりは寒気がして肩の重みが一向に取れなかったようだ。

むしろ進むほどに重さが増す。

(これが、いわゆる憑りつかれたってことか……)

会田さんはそう思っていた。少し顔色が悪くなっていた。

僕はそうとは知らず、奥まで行って朝鮮人慰霊碑と中国人慰霊碑に手を合わせた。ここで労働をしていたといわれる、隣国の人々を祀ってある碑だ。

そのときは会田さんの歩みはノロノロとしたものだった。

(御岩神社の登山の後で、疲れてるのかな……)

僕はその程度に思っていた。

だが、会田さんは首にしっかりと誰かが乗っかっているような重みを感じたまま、ついてきていたのだった。

無縁仏の碑がある場所にたくさんの卒塔婆が立てかけてある。それこそスキー板のようにたくさんある。

お地蔵さんも数体あるが、ふと不思議なことに気づく。

(寺なのにお墓が全くないぞ……)

無縁仏の向かいにある、社務所らしき場所を写すと、真っ白なもやがかかっていた。お線香の煙かな、と思ったが、どこにも線香は立っていない。

「誰もおられないようですね」

会田さんが小声でがっかりしたような声で言った。

会田さん自身はずっと首に重しのようなものが乗っていて、身動きできないほど辛い状態になっていたのだ。帰りの運転大丈夫かな……と彼はそれを心配していた。もちろん僕はそんなことに気づかない。

そのとき、一台の大きな白い車が階段を降り切った入り口に停まった。

「あの車、住職かな?」

なんとなくそう思った。駐車のやり方が慣れた感じだったからだ。

と階段を途中まで降りていると運転席から出てきた坊主頭の男性に声を掛けられた。黒いスーツにネクタイをつけていて、どうやら喪服のようだ。

「どなたですか? 何か用ですか?」

といぶかしそうな顔で聞かれた。その言葉でこの本山寺の関係者だとわかった。住職が喪服? という気はしたが、

「すみません、この辺りを取材している者でして……」

と慌てて謝りながら降りて行った。お寺とはいえ不法侵入の類になりかねない。しかし僕としてはかなりラッキーな出会いだった。

住職は一時間後には出かけなくてはならないという状況だったが、詳しくこの辺りの歴史を話してくれた。LINE交換までできて、また次回お会いする約束をした。

話をしたあと、会田さんを見るとほっとした表情に変わっていた。住職にお会いして、肩の重いものがすうっと消えたそうだ。

もしお会いできていなかったら、会田さんは憑りつかれたまま、帰りの高速でも何が起きたかわからない。

単なる偶然とは言い切れない出会いに、御岩神社に参ったことで、神徳が起きたのか、会田さんや僕の守護霊が守ったのか、住職との引き合わせは、その後を大きく変化させた。

小生瀬村の地獄沢に行ったあと、四十分遅れで本山寺に着いた。住職はおごそかに招き入れ、同行者の会田さんと共に、本殿の中に入る。

その時、僕の頭にだけ本殿のお線香の煙が向かっていったと、同行の会田さんが証言した。確かに本堂の中の空気はお線香の香りが充満していて、あまり気が良い雰囲気ではなかった。取材しながら住職も神妙な面持ちでおられるし、「何をしにきた」という複数の霊の思念が渦巻いている空気感だった。

「先にお参りをさせてもらえませんか?」

と住職にお願いした。

「はい、もちろんいいですよ」

本格的なお経とお焼香の煙、僕は神妙な気持ちで手を合わせた。『みなさんの無念を書かせていただきたい。残したい』それだけを祈った。

地獄沢から連れて行った無念の霊が去ったのか、安心したのか、すうっと本殿の空気が澄んで、首の圧迫感が消えた。

しかしお線香の煙は最後まで、僕の頭に向かってしか流れなかったそうだ。

住職にお聞きした本山寺の歴史を書く。

本山寺はもともと、鉱山やこの本山の町で亡くなった人の火葬場だった。今の寺務所は本来焼き場の待合室だった。

寺の入り口から高い石段があり、登り切った先に火葬場の跡がある。今はその焼き場自体はないが、上段の平地はお弔いをするときに人力の霊柩車が三回まわる風習があり、そのターンの場所になっていた。

山は険しいので、人力車に霊柩車の屋根がついた本格的なものだったそうだ。

上段上がった場所から山への道があったが、現在は「中国人慰霊碑」と「朝鮮人慰霊碑」があるのみで、その先の道は使わなくなったために藪に覆われている。この慰霊碑は、戦時中の労働力として海を渡ってきた人々の慰霊ために、日立鉱山が建てたものである。

「ここはJX(日立鉱山)や国の山になるんで、お墓は作れないんですよ」

と住職が言うように、お墓はない。

「ただ、お墓自体も買えるような人たちはいなかったようで、火葬場の横の崖に埋めさせてくれ、置かせてくれ、というのも昔はあったようです」

鉱夫によっては、そういう苦しい状況の人もいた。

戦後、一本杉の横にあった武道館に、外国労働者の方のお骨が骨壺と白木の箱のまま積まれていたのを見て嘆き、先代の住職が寺の入り口近くに無縁仏の碑とお地蔵さんを置いた。毎日住職は祈り、供養して今日がある。

しかし、お骨が散乱したり、誰のものかわからない等はなかったそうだ。時折、本国の子孫や慈善団体が来て、卒塔婆で供養するため、スキー板のように卒塔婆が立てかけられているように見えるが、何も怖いものではない。

「このあたりはね、四十年くらい前に廃坑が決まって、本山小学校も僕は通っていた大好きな学校だったし、映画館に武道館、遊ぶところもなんでもあって山だけで済んでたんですよ。だけど住む人がいなくなって団地もたくさんあったのが無くなってね。廃墟になったアパート群には僕らも子どものころは行ったりして遊び場でしたよ。だけど、冝保愛子ですかね、あの心霊ブームが起きたころ、その遊び場だった廃墟かなにかを指さして『霊がいる!』なんていうもんだから、廃墟と心霊マニアがどっと押し寄せたんですよ」

廃坑となった後の本山は、免許取りたての連中やヤンキー、心霊好きの人々に荒らされ放題だったようだ。

本山寺の前の道を登っていくと、今は企業が置かれているが、その前は住民が住む団地で、まさに『霊がいる』と証言されてしまった場所なので荒らされ、ついに頑丈な門を作ったが、その門が壊されたり、横から侵入できたりと、いくら止めてもダメだったようだ。

「うちにもしょっちゅう来たんですよ。しかも夜中でしょう? この寺務所で親子で寝泊まりしてたんでね、次の日は部活で朝五時に出なきゃいけないのに、外ではワーワー『幽霊出るかも』『誰かいるかも』って。しまいには花火とかも始めたりで超迷惑でしたよ。だから、おどかしてやろうと思って、石段にろうそくの明かりを一段一段に載せたんです。そういう供養もあるので。そしたら『キャー!』『火の玉!』みたいにして逃げていくのが聞こえてね」

と笑いながら話してくれた。

「この寺では、外国の人も日本人も一緒に勉強を教えたりしてましたよ。だからね、身寄りがない外国の人のお骨もちゃんと供養しなきゃいけない、それだけです。国際的な問題はあるだろうけど、供養はするべきですよ」

しっかりと答えた住職の目は、少し潤んでいた。無念の魂はまだ本国に戻れていないのだろうが、この本山寺に住職の彼という結界がある限り、このヤマは安定している、そう思った。

「通った小学校も、一本杉も、僕にとっては楽しくていい思い出の場所なんです。怖い場所じゃないんですよ。霊はいません。ちゃんと供養していますから」

東日本大震災のあの激しい揺れでも、山は崩れなかった。

日立の大煙突が二つに倒れたときがあったそうだ。今の煙突よりもっと高かったのだが、その時だけは住職が修行で県外に出ていたときだったそうだ。

本山寺を出たあとに、一本杉や団地があったという今は何もない草原の県道沿いを歩いてみたが、気になることと言えば、手だけが冷えて凍るようだった。気温は十二度あったのだが、指先がマヒして首筋に手を当て温めたらやっと治った。僕程度の人間が、写してはならぬものもあったやもしれぬ。

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