知り合いのお坊さんから聞いた。
あるお坊さんは両足が不自由なのだという。
小学生の頃のある事故が原因だった。
しかし深く傷ついたのは体ではなく、むしろ心だった。
義足の自分の未来に悲観し続ける子供時代を過ごしたという。そのために自分も世の中もどうなってもいいという気持ちから、ずいぶん無茶をした。
ところが悪いことをして捕まっても、義足であることがわかると許されてしまう。だからよけい大人の世界をなめてかかった。
家族の者も手を焼く日々だった。
ある日おばあさんが知り合いの高野山の修行僧を連れてきた。
このままではお前はだめになる。人として真っ当な生き方をする気はないか。わしと一緒に仏門に入って山で修行せんか、と説教されたが「誰が坊主なんかになるもんか」と突っぱねた。
修行僧はあきらめずに何度も何度も説教に来た。
正直なところ、このままでいいはずはないとはわかっている。真っ当になりたいと思っていた。
高校生になった時、修行僧という道もあるかとその冬、高野山を修行僧たちと登る決心をした。
修行僧たちは一列になり、一般の人の踏み入れない山道を行く。彼はそのしんがりを歩いた。松まつ葉ば杖づえで一歩一歩雪の高野を登る。
そのうち列からだんだん遅れだした。
だが誰も立ち止まらないし、助けてもくれない。
これも修行である。
とうとうひとり残された。
その時、松葉杖が滑り、体ごと斜面を滑り落ちた。
思わず両手でなにかを摑んだ。
蔦だった。
助かった。
松葉杖と義足が、谷底にすべり落ちていった。
蔦を離したら死ぬと思って必死にしがみついていた。
腕の力だけでよじ登るしかない。
長い時間をかけてなんとか斜面を登りきった。しかし、登ったところで、もう義足も松葉杖もない。
山へ登ることも下ることも出来ない。
…………
「この世に仏なんぞおらん」と目の前を見た。
まさか。
義足と松葉杖が並べて置いてある。
谷底に落ちたはずだ。
思わずそれを抱きしめると、今まで誰かが暖めてくれていたような温ぬくもりがあった。
「仏はおる」