覆水(北海道) | コワイハナシ47

覆水(北海道)

北海道で育ったHさんは、幼い頃にお父さんを亡くしてお母さんとふたり暮らしだった。

家は貧しかったが、お母さんはけっして生活苦を表に出す人ではなかったという。

ある年の夏の午後。お母さんが買い物についておいでと言う。小学校の低学年だったHさんは、買い物の時にいつもあれを買って、これが欲しいとねだるので、一緒に連れて行ってもらうのはとても珍しいことだった。

商店の並ぶ大通りを、お母さんは迷うことなくまっすぐに歩いてゆく。

いつもの買い物と違うな、と思いながらついていったという。

「それ、ひとつください」

という声を聞いて、はっと立ち止まった。見ると黄色い西瓜だ。受け取った途端に、さあ帰ろうと先を歩き出した。

驚いた。買ったのはくだものだ。Hさんの家にとって、けっして安い買い物ではない。

うれしいという気持ちが湧いてこない。

どうしたの?と言われてあわてて母に追いついて歩いた。

お母さんはちらっとHさんを見て、お盆だからと答えて西瓜を見せると、ほらお父さんの大好物だったでしょと言う。

そうだ、そうだった。

思い出したらうれしくて仕方ない。

「持たせて、持たせて」と大声でわめいた。

お父さんのための西瓜だ、どうしても自分が持ちたい。

家にある仏壇に自分が供えたい。

しかし、お母さんはそれを嫌がった。落とすから、ぶつけるから、といって持たせてくれない。

それを無理に持たせてもらった。持たせてもらったからには、しっかり持ち帰ってお父さんにいいところを見せたい。

西瓜だけを見つめて歩いた。

お母さんもHさんに合わせて横をゆっくり歩いてくれた。

その西瓜の横を見覚えのある靴とズボンのスソが通りすぎた。

あれ、誰だっけ?と立ち止まった。

そうだ、さっき通りすぎたのはお父さんだ。お父さんと同じ靴とズボン。

「お母さん」と顔を上げると、前にも横にも姿がない。振り返ると、後ろで呆然と背中を見せて立ちつくしている。

「お母さん、今ね……」と声をかけると、振り向いたお母さんがボロボロ涙を流している。

「今ね、今ね、お父さんがニコニコしながらお前のすぐ横を通ってね、向こうへ行って消えたの。笑ってたの。うれしそうに」

そう言ってお母さんはまた、消えた方を振り返った。

ぼくも会いたかった。お父さんの笑顔を見たかった、とHさんは大通りに座り込んで、西瓜を抱えて泣いたという。

夏の父は、その年にだけ現れた。

シェアする

フォローする