熱会 ノブヒロさんの話し(大阪府豊中市) | コワイハナシ47

熱会 ノブヒロさんの話し(大阪府豊中市)

熱会(大阪府豊中市)

「この話は十一年前の二月五日から始まるんです」と、大阪で会社を経営しているエツコさんは話しはじめた。

それは、豊中市の自宅へ帰る電車の中でのこと。

向かいの座席に初老の男が、じっと自分を見つめている。

あの人、どうして私を見ているのかしら。

男はまるでにらみつけるかのように目線を外さない。

細身で、上品な雰囲気があり、白い長髪を後ろでくくっている。

膝ひざには読みかけの竹久夢二の画集が載せられていた。

視線を気にしているうちに、駅に着いた。エツコさんは小走りに改札を抜けた。ところがさっきの男が後ろから追ってきて、「さっきは失礼しました。僕はこういうものです」と名刺を差し出した。

言葉に詰まっていると、「ひとめで惹ひかれました、少しの時間でいいですからご馳ち走そうさせて下さい」と言う。さっきの視線とは裏腹に声から優しさが感じられて、誘われるままに飲みにいった。

初老の男はノブヒロと名のった。五十九歳。少し前まで高校で美術の教師をしていたが、今は絵を描きながら悠々自適の生活をしているという。

ちょっとした言葉遣いや指のしぐさが女性を思わせる。

別れ際にエツコさんも会社の名刺を渡して家路についた。

翌朝九時、会社に電話があった。出るとノブヒロさんだ。

「昨夜楽しかった。ありがとう。また会えない?」

十一時にまた電話。ノブヒロさんだ。

三時、五時にもノブヒロさんから電話が入った。

この日以来、毎日同じ時間に電話が鳴った。

エツコさんが外出していると聞くと、ポケベルを鳴らした。

嫌いなタイプでもなかったので、時々会うようになった。

一日に何回もノブヒロさんと言葉を交わす生活がはじまった。

数日して、はじめてノブヒロさんのアトリエに遊びに行った。

彼の家を訪ねて驚いた。門を入ると同じ敷地に家が三軒ある。正面がお母さんの家。右端がノブヒロさんの息子夫婦の家。そして左端がノブヒロさんの家とアトリエ。

チャイムを押そうと手を伸ばすと、ガチャッとドアが開いた。

「やあ、いらっしゃい」

アトリエでお茶を飲みながら話をしているうちに、絵のモデルになってくれないかと頼まれた。

「ヌードでなければいいわよ」と引き受けた。

この時からアトリエに通うことになった。

玄関前。チャイムを押そうとするとドアが開く。

「待ってたよ」

「あら、どうしてわかったの」

「耳を澄ませているとね、たくさんの音の中に混じって聞き慣れたエッちゃんのパンプスの音がしてくるのよ。で、玄関に立って音が止まるのを心待ちしてるの」

ただの偶然なのに、上手うまいことを言うと思った。

偶然ではなかった。

通いはじめてから、ドアのノブに触る機会は一度もなかった。

ある日、アトリエを訪ねた時のことだった。

「僕だけの秘密、エッちゃんだけに見せてあげようか」

彼はエツコさんを描いた最初の絵を持ち出して裏返すと、彼が撮ったエツコさんの写真がビッシリ貼ってある。

いつのまに撮ったのかしら…………。

「これ、僕の宝物よ」と嬉うれしそうに言うと絵をかたづけた。

最初の出会いからちょうど一カ月たった夜のデート。

「僕はね、エッちゃんと会えてほんとうによかった。五十九年間生きてきたけどこの一カ月ほど幸せで充実した日々はなかったよ。すっごく感謝してる」と涙を流している。

「ただね、ひょっとしたら僕、もう死ぬかもしれないの。なにかあったら連絡できるように、僕の息子とお母さんの電話番号教えておくね。だからさ、エッちゃんの住所と電話番号も教えてよ」

「それだけは堪忍して」と即座に断った。

教えたくない理由があった。離婚したばかりで一歳の子供とマンションにふたりで暮らしている。その生活にいきなり別の男性に入って欲しくはなかったのだ。

説明のない拒絶がきっかけになって大おお喧げん嘩かになった。

「あんたの顔なんか見たくない」とエツコさんは怒って席を立った。バッグを忘れたことすら気づかなかった。

翌朝もいつもの電話が会社にかかってきた。

「社長、ノブヒロさんからお電話」

「いないって言って」

その日はじめて居留守を使った。

十一時、三時、五時の電話もポケベルも一切無視した。

その日、仕事が終わって帰ると、マンション前の階段にノブヒロさんが座っている。

なぜ?どうして?ノブヒロさんがどうしてここにいるの?と立ちつくした。

「あれ、エッちゃんどうしてここにいるの?」

あまりに信じられない再会に彼の方が呆ぼう然ぜんとしている。

彼女が昨夜忘れたハンドバッグを届けようと、あてもなく一日中歩いていたという。

疲れて、たまたまここの階段に腰を下ろして休んでいただけだったという。

「ほら、ハンドバッグ」

たちまち仲直りして、飲みにいった。

深夜、彼はエツコさんの自転車を借りて帰っていった。

これが生きているノブヒロさんの最後の姿となった。

死涙

会社にノブヒロさんのお母さんから電話があった。

「お通夜にも告別式にも来ないでください」という。

私の息子を殺したのはあなたでしょ、という重さに似たものが伝わってきた。

仕事が手につかない。

「社長、行くべきですよ。きっとノブヒロさんは社長のこと思って亡くなったに違いないですよ。一番来て欲しいのは社長ですよ」と社員に言われて、最後のお別れに行く決心がついた。

告別式。刺されるような視線と陰口の中、棺に花を入れた。

この人、生きてる。

みるみるうちに顔に赤味がさしてくる。

閉じた目にうっすら涙が浮かんでいる。

誰も気がつかない。

私だけだ。

煙来

エツコさんは久しぶりに妹にあった。

これまでの話をして気持ちを整理したかったからだ。

煙草を吸おうとカバンの中を探すと、ショートピースの箱が入っていた。

「これノブヒロさんが吸ってた煙草。どうして……」

本当にいつの間にカバンに入ったのだろう。

知らないうちに入っていた煙草なんて気味が悪いよ、と妹が持って帰った。

翌朝、出勤前のエツコさんにお母さんから電話があった。

「あの煙草はなに?」と言う。

息が止まった。

明け方のことだった。長い白髪を後ろでくくった男が、怖い顔で椅子に座りこちらをにらんでいる。そして絵の具や筆を投げつけてくるのだという。

「お母さん、ノブヒロさんのこと知ってるの?」

「やっぱりあなたの知り合いだったのね」と怒っている。

昨日妹が、これを燃やして灰にしてくれと煙草を持ってきた。

「あなたしか煙草吸わないでしょ。だからなにか気になって」と言う。

しばらくして今度は妹から電話が入った。

昨日の夜、寝ようとして灯りを消したら、読経が聞こえてきた。

甲高い声が部屋の中で延々と響き、眠れなかったという。

甲高い男の声……ノブヒロさんだ。

相目

朝の九時、会社の電話が鳴る。みんな顔を見合わせた。

ひとりが取ると無言で切れた。

「またです。社長」

告別式の翌日からエツコさんの会社には以前と変わりなく、毎日四回の電話が入った。

出るとすぐに切れてしまうが、かかってくる時間は生前通り正確だった。

「社長、本当に告別式に出てよかったんでしょうか?」と五人の社員がエツコさんの机の前に集まった。

社員が気味悪がった理由は別にあった。

エツコさんが会社に不在の時はかかってこないのだ。

直接エツコさんのポケベルにコールが入るのである。

それもノブヒロさんの自宅から。

生前のようにまず会社にかけて不在と聞いてからポケベルにかけるのではなく、直接かけてくるのである。

まるですぐそばで見ている。

社員はそれが怖かった。

そんなことはないと笑って打ち消したが、実のところエツコさん自身はまだ死を受け入れていなかった。まるで生前と同じで嬉うれしかったという。

ある日、親しい仕事仲間のパーティに招かれた。

その時たくさん撮った写真の中に一枚だけ気味の悪いものが写ったという。

後日、その友人に会って見せてもらうと、エツコさんに連絡してきたわけがわかった。

エツコさんが男性と肩を組んで笑っている一枚の写真。

正面を向いたふたりの間に白髪の男の顔だけがある。

正面顔なのに目だけが不自然なほど横目でエツコさんを見つめている。

ノブヒロさんだ。

私のそばにいて見てくれている。そう思えて嬉しかった。

浮音

ある日の午後。

仕事中ウワォーンと妙な音がしたかと思うと、事務所にクラシック音楽が流れ出した。

どこから聞こえてくるのかとみんな顔を上げた。

今はステレオに演歌のCDを流している。突然クラシックが聞こえ出した違和感にみんな驚いた。まるで演歌を打ち消すように鳴り響いている。

外から聞こえるのか?と窓を開けた。

音楽が背中から外に流れ出ていく。

部屋の中の音だ。

いったいどこから?

社内は騒然とした。

エツコさんだけは気がついていた。

曲名は知らないけれど、ノブヒロさんがアトリエでいつも聞いていた曲だ。告別式でも流れていた。

演歌が終わると同時にクラシックも聞こえなくなった。

誰も次のCDをかけようとはしなかった。

腕撫

自宅の風呂で髪を洗っていると、髪になにかがさわった。なにかしらと後ろに手をまわすと、妙なものが髪をつかんでいる。形を確かめて、反射的に手を引いた。頭の上に自分のものではない手がもう一本ある。

怖くて振り返ることができないまま両手で膝ひざを抱えていると、いとおしむように優しく上から下へ頭を撫でてくれる。

もしや、と頭に手をまわして恐る恐るさわると、男の左手だった。

確かめるとその薬指に指輪をしているのがわかる。

ノブヒロさんだ。

自宅の、それも浴室というのはあまりに心を無防備にさせていた。

いったい自分の後のどこから手が出ているのだろう。そう考えた時、怖いと感じはじめていることに気がついた。

ただひたすら、帰って、帰ってと念じながら、髪の毛を撫でるその手を感じるしかなかった。

ふと腕が消えた。

その時、体が乾き、寒くなりはじめていた。

誘い腕

ノブヒロさんを家に入れたことは一度もない。だから、部屋には来ないと勝手に決めつけていた。

なにがあっても外出先のことだと思っていた。

が、来た。

どうして?そう思うと眠れなかった。何度も何度も寝返りを打ってふっと目を覚ますと、目の前に左腕がある。

闇から腕が生えていて、それがゆっくりとエツコさんの顔の前に来た。

指にノブヒロさんの指輪。

私を迎えに来てくれたんだ。

一瞬、怖さを忘れて愛しくさえ思った。その手を握ろうとした時、「心不全」という声がした。

なんと寝ているエツコさんのまわりに社員たちがいる。

「社長、どうして死んじゃったんですか?」と泣いている。

この手を握ったら、私、死んでノブヒロさんに連れて行かれる。そう思って躊躇する。

すると、その腕がそっと動いて、さあとばかりにエツコさんの左手に近づいた。

ノブヒロさん、嬉しいと、その手を握りたくなった。

「心不全」という声がまた聞こえた。

今度は横でお母さんと妹が「どうして?どうして?」と号泣している。

ダメ、この手を握ってはダメ。

宙に浮かんだ左腕が、「そんなこと言わないで」と訴えている。

目を真っ赤に泣きはらした我が子の大きな顔が浮かんだ。

いけない。

手が消えた。と思ったら朝になっていた。

……………………………………

やっとノブヒロさんの死を受け入れることができた。

本当に怖いと感じた一晩だったという。

死留

ノブヒロさんが死んで半年。

会社の電話は相変わらず定時に鳴る。

家に帰っても風呂に入るのも、寝るのも怖くなった。

食事も喉のどを通らない。

そこに友人が訪ねて来てくれた。

見かねた社員が心配して連絡してくれたのだ。

「私の知り合いで、比ひ叡えい山ざんで修行した偉いお坊さんがいるから、助けてもらいましょう。いい?エツコ。死ぬかもしれないのよ。話は先方にしてあるから」

その場で日取りと待ち合わせ場所を決められた。

ところが当日の朝になっても行く気がしない。

「やっぱり行かない」と友人に断りの電話を入れた。すると、「行きたくないのはあなたじゃない。ノブヒロさんよ。絶対来るのよ。子供はどうするの?」と、叱られた。

行きたくない気持ちを抑えて、身体をひきずるように出かけた。遅れながらも合流した後、友人にずっと手を引いてもらい、なんとかお寺に着くことができた。

庫裏の玄関を開けてごめんくださいと言った途端、どすんと鈍い音がして目の前に額縁が落ちた。ふたりで玄関に入ると、ガタガタ、ガタガタと下げ駄た箱の扉が音をたてて上下しだした。

奥から娘さんらしき人があわてて出てきた。

「お待ちしてました、さあどうぞ」と案内される。

廊下を通される。エツコさんが通ると廊下の襖ふすまが、バタバタ、バタバタと揺れる。

あまりの異変にきっとなにか仕掛けがあるのだろうとさえ思った。怖いと思ったのは、ある部屋を通り抜けた時だった。すぐそばの本棚の奥から本が畳にあふれ落ち、掛け軸が暴れるように舞い上がる。これはただ事ではない。

通されたのは本堂ではなく、一番奥の密室を思わせる小部屋だった。

娘さんは襖を開けると、逃げるように戻っていった。

お坊さんが文机を前に正座していて、ボロボロ涙を流して震えている。

いきなり「あなた、生きたいですか?生きたいですか?」と問う。

そのひとことで廊下から部屋に一歩も入れない。

「このままだとあなたは連れて行かれます。あなたが行かなければお子さんが連れて行かれます」

まさか。そんな。とふたりして愕がく然ぜんとした。

お坊さんの震えが大きくなったと思った。

違う。ガタガタガタッとお坊さんの文机が動いている。

まるで浮き上がろうとしている文机を押さえつけている。気がつくと部屋の中の経典や仏具なども音をたてはじめている。

ひゅんひゅんと部屋の中で風鳴がする。

「お座んなさい」

ふたりは座布団をすすめられた。

「よく聞きなさい。あなたの後ろにいる彼氏は二百年前もあなたと恋仲でした。ところが身分が違う許されぬ道、ならばとあなたと崖がけから飛び降りたのです。ああ、男は途中の木で腰を砕いて、左手からあなたを手離してしまった。ああ、岩に当たる。岩に頭を……。ふたりは別々に葬られました。それが悔しくて悔しくて、という気持ちがあまりに強い。死んでなお仲を裂かれたふたりが、今この世で会ったのです。やっと出会いながら、またあなたを残した。そのことに死んでから気がついた。このままではまた家や墓が違ってしまう。今ならあなたと旅立てる。あなたと一緒なら満足できる。もし、だめなら、あなたの子供を連れて行くでしょう。このままでは大変なことになります」

お坊さんの話が進むにつれて風鳴も止み、文机もすべてが静かになっていた。

頭の中が真っ白になった。

「どうしたらいいんでしょう」

「あなた、彼氏からなにかをもらってませんか?それを私の所に持ってきなさい。明日絶対に持ってきなさい、あなたの生死に関わることですから、明日一日空けて待ってます」

ところが、翌日、エツコさんはお寺に行かなかった。

腑理由

「どうして行かなかったの!あなた死んでもいいの!一日中お待ちになってたのよ」と友人から抗議の電話が入った。

どうしてなのかわからない。あれほど怖いことが続き、行かないと命まで危ない、子供もどうなるかわからないと言われながら、一歩も家の外に出る気にならなかった。でも、また行ってきのうお寺で目の当たりにした様々な怖いことも二度と見たくない。

行っても怖い。行かなくても怖い。しかし、家から動かなければ安心なような気がした。そういう気にさせられたのかもしれない、とエツコさんは言う。

ともかく行かなかった。

どうしようと思っていたある日、ノブヒロさんに紹介されて親しくなった男性から食事に誘われた。

男性は医学博士だと聞かされていたが、ノブヒロさんの司法解剖をしたのは私です、と打ち明けられた。

警察にいろいろ質問されて大変だったでしょう、と労をねぎらうために誘ったのだという。

そうなのだ。階段から落ちた事故死だと聞かされていたのに何度も警察から質問された。最後は結果的にやはり事故死だったと言われたのだけれど、今までずっと〝結果的に〟というのが引っかかっていた。

いったいノブヒロさんはどんな死に方だったのだろう。思い切って聞いてみると、ひと息ついて「変死です」と答えた。

「僕もね、司法解剖してるから遺体については詳しいけども、ノブさんの死に方は階段の途中から落ちたものとはとうてい信じられないものだった」と言う。

「教えてください。私、ノブヒロさんがどんな死に方だったのか知りたいのです」と訴えた。

重い口を開いて最期の姿を教えてくれた。

階段からの転落死。しかし、上半身が不自然にネジ切れんばかりに曲がっている上に、顔が変形しているといってもいいほどものすごい形相をしていた。左手がいっぱいに伸び切っている。玄関口にある電話を必死に取ろうとしたように見えたという。

駆けつけた家族が殺人だと思って通報するのは当然の話だった。それを聞かされて、エツコさんはやっと警察の態度が理解できた。

しかし驚いたのは、ノブヒロさんの遺体の説明だ。

お寺で聞いた話に似ている。

亡くなった後の身のまわりの異変を打ち明けた。

はじめは信じられないという顔をしていた彼だった。

ところが最後に先日のお寺の話をすると「それは断ち切らねばいかんやろ」と顔色を変えた。

実は彼も、ノブヒロさんがエツコさんと出会ってからの一カ月、異常ともいえる入れ込みようを知っていた。だからこそ死んだ後のエツコさんが気になっていたのだという。

「ノブさんを止めましょう。今、四天王寺さんで法要をしてるから、一緒に行こう」と翌日ふたりで四天王寺へ行った。

「ああ、すみませんなあ。法要は昨日終わってしもうたんです」と言われ、「じゃあ、僕の知り合いが妙見山におるから、ここに予約しよう」とその場で電話で予約した。

妙見山のお寺に行くと、「すみません、どうも日付間違うてたみたいで、今日はそういう日やないんですわ」と、予約を入れていたのに断られた。

それからいくつものお寺や神社に、電話で問い合わせたが、不思議なくらいタイミングが合わない。

行かせないとノブヒロさんが言っている、と思うようになった。

鎌鼬

エツコさんは、自分のために八方手を尽くしてお寺や神社を回ってくれる彼を見ているうちに、いつの間にか好意を抱きはじめていた。

彼も同情で動いているだけではない自分に気づいていた。

ある夜、互いの気持ちが自然に重なり合って、ふたりきりになっていた。

ベッドの中で彼がエツコさんに寄り添った時だった。

いてっと言った彼は、なんだろうと足を見て、大声をあげてベッドから転げ落ちた。

毛布をどけて見ると、足もとのシーツに血がたまっている。

彼は足の裏を真っ青な顔で見つめている。

かかとから親指のつけ根まで足の裏が裂けていた。

「ノブヒロさん。ノブヒロさんが怒ってる!」

「ノブさん、すまん。悪かった。許してくれ」

ふたりはタオルで足をグルグルと縛ってタクシーに乗って病院へ向かった。

招鈴

もう誰にも相談できないのだろうとあきらめていた。

夜、やっと子供を寝かしつけた時だった。

ピンポーン。玄関のチャイムが鳴った。

覗き穴から外を見たが誰もいない。

変ね。

時刻は九時半。来客があってもおかしい時間ではない。しかし、外の廊下に出ても回りには誰もいない。

思いだした。

今日三月五日は一周忌だ。

昼間、会社にノブヒロさんのお母さんから法要には来ないでくださいと電話があった。

途端に怖くなった。その時、電話が鳴った。

「……もしもし」

プツッと切れた。

間違い電話かしらと思っているとピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。きっとまたドアの外には誰もいないに違いない。

ピンポーン、ピンポーン。

無視していると、玄関に出るまで鳴り続けた。

子供も寝ている。出るしかない。

外に出てみると、やはり誰もいない。

戻ると、また電話が鳴りはじめる。受話器を取るまでいつまでも鳴り止まない。

仕方なく受話器を取る。

「…………」

プツッ。

ピンポーン、ピンポーン。

エツコさんは怖さからか情けなさからか、涙があふれた。

「ノブヒロさん、もうやめて、お願い。本当にもうやめて、子供もいるの!私を怖がらせて楽しい?私あなたが怖い!」

すると電話もチャイムも静かになった。

呼ぶ子

ノブヒロさんと出会って一カ月で死に別れた。その死から一年がたった。

思えばこの一年、ずっとノブヒロさんがそばにいたのかと思うと、改めて怖くなった。

真夜中、突然うわぁぁんと子供が泣き出した。

顔が真っ赤になっている。ものすごい熱だ。

こんな時なのに、なぜか時計を見た。三時十五分。

解剖した彼が教えてくれたノブヒロさんの死亡推定時刻だ。

子供は火がついたかのように泣き叫んでいる。

……………………………

「ノブヒロッ!いいかげんにして」

今まで怖くて言えなかったそれが子供に及んだ瞬間にふっ切れた。

「楽しいの?私の子供が苦しむと楽しいの?そんな男かあなたは!私のこと好きだなんてウソよ!殺して!さっさと私を殺して!あーもう、あなたなんかと出会うんじゃなかった。大嫌い!死んだって一緒になんかいくもんですか!」と思いつくまま、ののしるだけののしった。

子供の泣き声がピタッとやんだ。

熱も下がっている。

静かになったと思ったら朝になっていた。

この日、会社への無言電話が終わった。

残絵

ひとつ。

心残りがあるという。

エツコさんの写真が貼り込んである絵。

ノブヒロさんが亡くなった後、自宅に残されたあの絵。

家族の人たちが処分したり売ったりしていないかが気にかかるという。

知らずにあの絵を買った人がいたら……。

そのことを知らせたくてお母さん、息子さんに電話を何度かしたが、名乗ると切られた。

心と絵が残されたまま十一年がたっている。

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