仙台市で暮らす主婦の中野さんは青森県出身なのだそうだ。
その中野さんが地元で暮らしていた、二十歳の頃の出来事である。
新車を買った。その年に登場したばかりのホンダ・フィットだった。
当然、どこかへドライブに行きたくなる。
男友達二人を誘って、岩手県沿岸部へと出掛けた。
そこへ立ち寄ったのは、ドライブの帰り道のことである。
それは、波打ち際に穿たれた天然の穴であった。
大きな波が打ち寄せると、その穴から間欠泉のように海水が噴き上がるらしい。
観光案内の看板を目にした友人が、「寄ってみようぜ」と提案したのだ。
駐車場に着いたのは、十六時頃。
晩秋ということもあって、辺りは既に薄暗くなっていた。
夏と違って観光客も少なく、土産物屋は店じまいを始めている。
まばらな人影が、吹きすさぶ風の中を行き来するばかりである。
しかし折角来たのだから、さっと見て帰ろう。
友人の提案で、ともあれ件の穴の見えるところまで行くことにした。
目指す場所へは、森の中の小道を歩かねばならない。
陽は西の山かげに向かって傾き、東に広がる海からは夜が満ちてくる。
満足に電灯もない道は、木の根や石ころで随分歩き難い。
時折、木々の向こうにぽつん、ぽつんと明かりが見えた。
たいまつなのだろうか、橙色の小さな炎がチロチロと揺れている。
ともあれ、自分たち以外にも誰かがいる、というのは心強かった。
しかし。行きついた先で中野さんたちを出迎えたのは、一面の暗闇であった。
要した時間は十五分ほど。その間に陽が完全に沈んでしまったのだ。
身を切るように冷たい風が轟々と吹きつける。
海も山も見えず、ただ波の打ち付ける音だけが穴の存在を予感させた。
――これじゃ仕方ない、もう帰ろう。
誰からともなくそう言った。
中野さんを前後から挟むようにして、三人は駐車場への帰途に就いた。
足元の悪い中を歩かねばならない彼らの、中野さんへの最大限の配慮であった。
脇から飛び出した枝葉に打たれる。
無遠慮に転がる石に躓く。
それでもどうにか、言葉を交わしつつ足を進めていく。
「ちょっと、急ごうか」
不意に、殿を務める後藤君が言った。
声色がやや強張っている。疲れてきたのだろうか。
「もう少し、急ごうか」
後藤君は繰り返した。
しかし、そう言われてもどうにかなるものでもない。
明かりも持たず、真っ暗な山道を行かねばならないのだ。
「いいから急いで、早く」
どうしたの、何があるの。でもそんなに急げないよ。
中野さんたちのそんな言葉を制して、後藤君が語気を強めた。
訳が分からない。
けれども、これは急いだほうが良い、そんな気がした。
風が轟っと吹いて、木々が震える。
山が鳥肌を立てるように、ざわめきが広がっていく。
息が上がる。足がもつれる。それでも歩みは止められない。
「走れ!車乗ってさっさと出せ!」
小道を抜けて駐車場へ飛び出すと同時に、後藤君が叫んだ。
叩きつけるように扉を閉める。
震える手を押さえながらキーを捻る。
アクセルペダルを蹴りつけて、寝起きのエンジンを噴き上がらせた。
「何か知らないけどさ。誰か付いてきてたんだよ」
国道に連なる照明灯が車内に射し込んできた頃、後藤君が口を開いた。
いったい誰がいたと言うのだろうか。
帰り道、あそこにいたのは私たち三人だけのはずである。
もしかして、霊的なものだというのか。しかし彼にそんな能力はなかったはずだ。
「そうだよ、ないよ。それなのに気配を感じたから、余計に怖かったんだ」
小さな声で、しかしはっきりと、後藤君は言った。
何はともあれ、三人とも無事であったのだ。
いったん落ち着いて、コーヒーでも飲もうではないか。
コンビニに降り立った中野さんたちは、今度こそ本当に血の気が引いた。
べたべたべたべたべたべたべたべたべたべたべたべた。
黒いハッチバックに付けられた、薄茶けた無数の手形。
余り大きくはない掌に、ほっそりとした指。
女性のもののように見えた、と中野さんは語った。
車は、すぐに洗ったそうだ。