妻が……いる(東京都) | コワイハナシ47

妻が……いる(東京都)

「アレが待っているんだよ…僕を」

東京都内にある、某求人広告誌のスタッフである蛭田さんは、同じ課の同僚で友人でもあるD氏の顔色が、日ごとに悪くなっていくことに気がついていた。

D氏は先日、奥さんを急に亡くし、意気消沈していた。事情が事情である。蛭田さんを始めとして職場の者は、D氏に軽々しい励ましをするかわりに、できるだけ仕事の負担を軽くするよう、つとめて気をつかっていたのだけれど。

「おい、D。体は大丈夫なのか?」

おそらく原因は精神的なものだと蛭田さんは思っていたけれど、あえて体調のほうからD氏にたずねてみた。

「体?……ああ、おかげさまでね。大丈夫だよ。みんな、気をつかってくれてすまないね。どこといって悪いところは、ない。食欲はぜんぜんないけれどね……」

D氏は、うっすらと笑いながら、目の下にくまのできた顔でそんな台詞を言うのだった。

食欲がまったくなくて、どうして健康だと言えるのか。蛭田さんは重ねて問いかけた。

「そうはいっても大丈夫には見えないぞ。だいたい夜、寝ているのか?睡眠は、どうなんだ?」

「夜……?」

D氏は何事か考えこむように、言葉をとぎらせた。

「いや、眠れていない。ちょっと──アレが──その」

言葉の最後のほうは聞こえない。

「アレ?」

蛭田さんは、体を乗り出した。

「アレってなんのことだい?いや、最近、お前が病人のように見えるんだよ。どこか悪くしてるんじゃないかと、みんなも心配してるんだ。自分で相談に乗れることがあったら、遠慮なく言ってくれよ。役に立てるかどうかはわからないが」

「ありがとう、蛭田。しかし……」

D氏はまた、うっすらと笑った。まったくそれは蛭田さんが言うように、不健康な笑い方であった。

「まいっているのは確かだ。けれど病気とか、そういったものなんかじゃあ、ない。なにしろ僕が家に帰ると──アレがいるんだよ。待っているんだよ……僕を」

蛭田さんは当惑した。また「アレ」だ。いったい、なんのことを言っているのだろう。まさか借金取り──闇金のたぐいにでも悩まされているというのか。

「眠れないとか、帰ったら待っているとか、どうもわからないな。言ってくれよ。君の言うアレって……」

「女房だよ」

D氏は、まじめな顔で言った。しばらく二人の間に、沈黙が流れた。

「女房って──奥さんのことか。しかし、D」

「ああ、言いたいことはわかる。女房は死んだよ。とっくに死んでるって言いたいんだろう。わかってる。けれどな……」

……D氏が帰宅するのは、たいてい深夜近くだった。以前はもっと早い時間帯だったのだが、独り身になってからしだいに帰宅時間は遅くなっていった。

借家ではあったけれど、一戸建てに夫婦でそれまで暮らしていたD氏であった。二人はまだ若い。ゆくゆくは子供も産まれて、家族が増えることを夢見ていたのだ。そのために手狭にならないように借りた家であったのに……。

以前と違って、彼を迎える家には窓に明るい光が、ない。玄関も、真っ暗だ。

家全体が、しんと静まりかえり、残暑の折りだというのに冷えこんでいる気さえする。

D氏はサイフから鍵を取り出し、玄関を開ける。カラカラカラと戸を開ける。

そうしてつい──それまでの習慣から、玄関の明かりのスイッチを入れる前に、暗い家のなかに向かって声をかけるのだ。

「ただいま」

と。

………………すると。

家の奥のほうから、かすかではあるけれど、はっきりと返事がある。

何年も慣れ親しんだ──────声が。

「………………おかえりなさい」

と。

「……驚いたよ。幻聴かと思った。いや、ふつう、そう思うだろう。とにかくあわてて家のなかに駆けあがって、あちこちの部屋の電灯をつけてまわった」

D氏は真顔で、言い続ける。

「けれども人はいない。誰が潜んでいるわけでも、ない。いなくて当たり前なんだが──そうなんだが」

蛭田さんはしばらく言うべき言葉を頭のなかでさがしてから、真顔の友人にうなずいた。

「そりゃあ、そうだ。いなくて当然だ。やっぱり気のせいなんだよ。そうとも。疲れてるんだ。だから」

D氏はゆっくりと首を振った。

「ところが、これが毎日続くんだ。毎日だ。それでも僕は、疲れて気のせいで、ありもしないものを聞いているのかね?」

「それは……」

「最近では」

生気にとぼしい顔を蛭田さんに向けるD氏。

「夜中に家のなかを誰かが歩きまわっている気配も、する。あっちの部屋、こっちの部屋をのぞきこんでいる気配だ。それに………………サラサラと壁や戸に髪の毛が当たる音も、だ。気のせいなんかじゃあ、ない。アレがいるんだ。女房が。確かに、家のなかに──いまも」

蛭田さんは、D氏の奥さんが長い黒髪の持ち主であったことを思い出した。それから心のなかで、頭を振った。

転居先で待っていたものは

D氏は奥さんを失った喪失感のなかで、妄想を育てていったに違いない。そうだ。けっして健全とはいえない妄想を。

(こいつは、いけない。このままに、しておけない)

結果、蛭田さんは上司にD氏の言動を打ち明けた。

そして上司は専門医師を交えて、D氏と話し合った。

……D氏は、転居することになった。奥さんの遺品を、できるだけ処分したうえで、だ。

今度の住居は独身寮として使用されている、社が所有している集合住宅であった。それまでの家にくらべるとかなり見劣りがするものの、一人暮らしにはなんの不自由も、ない。

そうして彼の転居から数週間が過ぎた。

目に見えて回復したようには思えないけれど、D氏はとにかく仕事はこなしている。

蛭田さんは、定例の会議が終わってから、つとめてさりげなく友人に近況を聞いたのだった。

「おい、D、どうだい?最近は?」

机の上の資料をまとめていたD氏は、ゆっくりと顔をあげて蛭田さんを見上げる。

「どうって──何がだい?」

その口調は穏やかだ。

「いや、いや、まあ、その、以前言っていたアレだよ。転居してからは──その、何事もないんだろう?」

「あるよ」

「えっ?」

蛭田さんは、自分が聞き間違えたのかと思った。D氏の口調は穏やかで、なんの抑揚もなく、そして──異常であった。

「女房のことだろう?………………あるよ」

D氏は、うっすらと笑った。いつか見た──あの笑い方であった。

「部屋のあちこちに、髪の毛が落ちているんだ。いや、僕のじゃあない。長い、女の髪の毛だよ。しゅるしゅると、洗面所のほうからも髪を梳く音が聞こえてくる。しゅるしゅるしゅるしゅる……とね……」

D氏の口調は淡々としていた。言っている内容にまったく反して。

「それに、やっぱり僕が帰ると、部屋の奥から声が聞こえてくる。じんわりと暗い部屋の向こうから」

また、笑い。

「お帰りなさいって……ね」

その後もD氏は、職場に出勤を続けている。けれども起動していないパソコンのキーを打ったりする行動が、問題になり始めているとか。

かろうじて有給休暇の範囲内ではあるけれど、欠勤も目立ち始めた。

蛭田さんはもう、なにもたずねようとはしない。

ただ、オフィス内をどこか憑かれたように歩いているD氏を見ていると、どうかするともう一人。彼の傍らに、もうろうとした人影が寄り添っているような気がすることが、ある。

D氏の奇行にいたる話がすべて伴侶を失った喪失感からくる精神的なものだとするならば。

蛭田さんが見ているものもやはり、医師の領分なのだろう。

………………おそらくは。

シェアする

フォローする