後部トランク(神奈川県) | コワイハナシ47

後部トランク(神奈川県)

「臭うんだよ……悪臭が」

「洗車のときだけどさ」

休日の夕食の席だった。

東京都心に近い神奈川県某市の、ある低層マンションで奥さんと二人暮らしの岩上さんは、先に夕食を終えて洗いものを始めている奥さんに向かって話しかけた。

「ん?なあに?」

「洗車のときに、なにか、臭うんだよ。生ゴミみたいな──いや、あれは、そんなものじゃあないな。もっと凄い悪臭が」

「なに、それ。汚水がどこかから漏れてるとか、誰かゴミの不法投棄をしているってこと?」

奥さんの言葉に、岩上さんは首を振る。

「いやあ。違うと思うな。まわりを見まわしても汚水が流れている様子はないし。ゴミも見当たらないからね。それにどうも、あの悪臭の元は──207号室の車みたいなんだ」

「207号室?あの愛想のない△△さんの?」

「声が大きいよ……」

岩上さんは、奥さんの無頓着をたしなめた。

「とにかく、マンションの駐車場に停めてある、あそこの車の後部トランク──どうもあれが元凶じゃないかと思うんだ」

「なかになにか──スーパーで買ってきた食材でも入れたまま忘れて、それが腐っているっていうの?」

「どうかなあ。……もしそうなら一声かけておいたほうが、いいのかな?」

「やめてよ」

奥さんは洗いものの手を止めて、はっきりと言った。

「あなたは仕事で忙しくて知らないかもしれないけれど、いろいろと言われているのよ。あの△△さん。なんだか怖い人だって。最近、とくに目つきがおかしいし。廊下で挨拶しても、返事もしないし。……とにかく、同じマンションの住人なんだから、波風たてないように気をつけてね。適度な無関心も必要なのよ。近所づきあいには」

「……わかってるよ」

一気に言う奥さんに、岩上さんはぶすっとしながらもうなずくしかなかった。彼女の言うことは、いつも正論であったからだ。

そんな岩上さんに、再び背を向けた奥さんは、そのままで言葉を継いだ。

「あなた。一服するならベランダに出てね。わかってる?」

「……わかってるよ」

毎日、通勤に車を使用している岩上さんは、奥さんに打ち明ける以前から、その屋外駐車場に漂う悪臭に気がついていた。

まったくと言っていいほど感じないときもあれば、鼻がどうかなると思うほどひどい日も、ある。気温や湿度に風向き、天気などは関係がないようだ。

(ほかの住人たちは気がついていないのだろうか?妻はああ言うが、管理人に一言いっておいたほうがいいのではないか?)

どうやら悪臭の源だと見当をつけている問題の車を横目で見ながら、岩上さんはそうも思う。

彼の奥さんは食材云々と言っていたが、最初に悪臭に気がついてから一ヵ月以上は経っているだろう。いくらなんでも、スーパーの袋に入るものが、こういつまでも臭いが続くとは思えない。

なにか大きな動物。たとえば、犬や猫が、なにかの間違いでトランクに閉じこめられ、糞尿を垂れ流したあげく、絶命して、そのままになっている……。

それならば話は別かもしれないが。

(まさか──そんなことはないだろう……)

けれども岩上さんの脳裏には、死骸が時間経過とともにウジをわかせて腐敗してゆくイメージが浮かびあがるのだった。

皮が剝け、ジュクジュクになった肉がとろけて、汚汁と化して液化してゆくイメージが。

だがしかし。

207号室というプレートのついた駐車区画にわざわざ近寄って、無人の車のトランクのまわりを検めても、汚い汁がこぼれている様子は、ない。獣臭なども皆無だ。

それに意識してさぐっているときに限って、鼻先に漂ってくるのは、きまってオイル臭やワックス臭などの、車なら当たり前の平凡な臭いだけなのである……。

第一、トランクに動物が閉じこめられて死骸がそのままになっているとすれば、日によって臭いが消えたり、またひどくなったりする説明がつかない。

(どうなっているんだ?いったい?)

妻に言われたとおり、ベランダで一服しながら、岩上さんは首をひねった。

そうして、なにげなく下の屋外駐車場に視線を向けた彼は、どきっとした。

何か──大きな影が、車のそばに立っているように見えたのだ。

人影?わからない。見えたのは一瞬のことで、影は車の下に潜りこむようにして、もう、なにもうかがえない。

それがあの、207号室の車であった。

(△△氏か?これから夜のドライブ?まさか……な。いや、車上荒らしじゃないだろうな……)

自分の車もおいてある駐車場だ。確かめに行こうかとも思った岩上さんであったが、結局──行かずじまいだった。

うまくは言えない。なにか、そのとき、あそこに行ってはいけないような気がしたのであった。

理屈ではない。直感で。

無人の車のトランクがゆっくりと…

そして、次の休日。

岩上さんは、愛車の整備に勤しんでいた。通勤にも使用している愛車だが、車道楽の彼は車をいじっているだけでストレス解消になるのだった。奥さんには、休日の過ごし方としては、はなはだ不評であったけれど。

絶好の行楽日和で、駐車場には数台の車しか残っては、いない。

そのなかには例の、207号室の車もあった。

駐車区画は、ちょうど岩上さんの後ろにあたる。こちらに後部のトランクを向けて、停められている……。

車の主とは、このところ廊下ですれ違う機会さえなかった。車のほうも、動かされた形跡はない。その証拠に車体はホコリや鳥の糞だらけで、放置されているといってもいい状態であった。

車好きの岩上さんにとっては、他人の持ち物とはいえ、本来なら憤りがこみあげてくるところだが……。

(自分は自分。他人は他人さ)

ことさらに背後を見ないようにして、彼は作業に没頭していた。

あの悪臭も、なぜかこのところおさまっていた。

……ところが。

(ウッ!)

なんの前触れもなく、ものすごい汚臭が背後から吹きつけてきたのである。

いや、ぶつかってきたというべきだろうか。

いままでとはまるで、くらべものにならなかった。腐乱し、ゲル状になった生肉が、顔の前に、ぶらさがっているかのようだ。

(ど、どういうことだ?)

岩上さんは、思わず背後を振り返った。

すると。

彼以外、誰もいない駐車場のなかで、207号室の車のトランクが、ゆっくりと………………閉まってゆくところだった。

「──エッ?」

目の前の車のなかに、人は乗ってはいない。したがって車内からリモコンで操作されているわけでは、ない。もちろんトランクの周囲は無人だ。

それなのに。いつのまにか開いていたらしいトランクのふたは、いま、岩上さんの見ている前で勝手に、まるで目に見えない誰かが手をそえているかのように──ゆっくりと閉まってゆくのだ。

バタン。

………………閉まった。

岩上さんは、あたりを見まわした。それなりの広さの駐車場内には相変わらず誰もいない。マンションのベランダに出ている者もいない。周囲を囲むフェンス越しに、ときおり通り過ぎていく車両が見える。それ以外は静かだ。………………静かな昼下がりだ。けれど。

あの汚臭は、消えていた。

まるでトランク内にためていた毒気を吐き出しつくしたように。

が、臭いがあろうとなかろうと、岩上さんは胸の鼓動が速まるのを押さえることができない。額には脂汗がにじんでいる。拭っても──拭っても。

(いま、自分は見た。無人の車のトランクが、いつのまにか開いて、そして勝手に閉まるのを。あの──あのトランクのなかには、なにか、いるのか?)

岩上さんは、引き寄せられるようにして207号室の車に、近づいて行った。そして何度かためらった末に、トランクに手をかけていた。これでは自分が駐車泥と言われても文句は言えない。なにしろ、他人様の車なのだから。

(なにをやってるんだ、自分は。ふつうなら開くはずが、ない。ロックされていて当然だ。そうじゃないか。さっき自分が見たと思ったのも錯覚だったのかもしれない。白昼夢だったのかも)

さまざまな思いで、岩上さんの頭は真っ白になりかける。

しかし。

………………ばくん。

岩上さんの予想に反して──トランクは無施錠であった。

(開く?)

ゆっくりとふたが持ち上がってゆく。大きなトランクだ。そう、無理をすれば大人でも入れるほどの。

そうして、なかには。

なにも………………ない。

岩上さんの予想に反して、そこにはなにもなかった。空、だ。隅から隅まで見ても、腐ったものなど、なにも、ない。空虚で、広いだけのトランク……。

「…………」

額の汗が、ねっとりと感じられる。岩上さんは、元どおりトランクのふたを閉めた。今度こそ、完全に、だ。

釈然としないものは、ある。が、現になにもないのだ。これ以上、どう確認のしようがあるのか。

(自分は、どうかしているな。なにもかも神経のせいだったということか。あの悪臭も……いまの光景も。昔なら気の病とかなんとか言われるところだ)

背後から聞こえてきた物音

彼は、数歩、自分の車のところに戻りかけた。

そして──次の足を踏み出せなくなった。

物音が、する。

背後から、物音が聞こえる。

ギギーッ。ギッギッギッ……。

(まさか)

そして、かすかではあるけれど、鼻をつく臭い。

(まさか)

岩上さんは、筋の違ったような角度で、背後に首を向けた。

トランクが………………半分ほど開いている。

たったいま、間違いなく自分がきちんと閉じたトランクが。内部が空っぽであることを、執拗なほど確認したばかりのトランクが。

そして──陰になった暗いそのなかに、なにかが見える。それは。

………………うつむいた人の頭のように見えた。

(とてつもなく長い黒髪が、こちらにバサリと垂れた──女?まさか。まさか)

それだけでは、ない。

トランクの縁を、白い、ぶよぶよとしたものが内側からつかんでいた。

岩上さんの目にはそれが、何本かもげて、欠けた、手の指に映った……。

「………………」

岩上さんは、無言のまま自分の車のところに戻った。そして、道具を片づける。彼は晴天の空の下、車から離れて自室へと向かい始めた。

どこかから、のどかに鳥の鳴き声が聞こえる。

そこはふつうの駐車場のはずだった。

それなのに。冷たい汗にまみれた彼の足は何度も何度も、もつれかける……。

「そういえば例の△△さんの奥さん。ダンナに愛想をつかして、どこかに逃げちゃったって噂よ」

夜になって、食欲がないままソファーに横になっていた岩上さんに、TVを見ていた奥さんが、またしても大きな声でそんなことを言い出した。

「DV(ドメスティック・バイオレンス)ってやつかしらね。奥さんにひどい暴力をふるって、夫婦仲は最悪だったらしいわね。逃げ出しても無理ないわよねえ。そういえば、ここのところ奥さんも姿を見ないとは思っていたけれど──やっぱり、ねえ」

「△△さんの奥さんの姿が見えない……」

岩上さんは、ぼうっとした頭で天井を見上げ、つぶやいていた。

(そうだ。あれは大きなトランクだった。無理をすれば、大人でも入れる──いや、押しこむことができるほどの)

押しこんでどこにでも運ぶことができるほどの。

トランク。幻の汚臭。そして昼間見た、あの──。

なにかが、一本の糸につながるような気がしてくる……。

岩上さんに限らず、愛煙家には受難の時代だ。彼は一服する際、必ずベランダへと追いやられる。けれども、もう彼は駐車場のほうは絶対に見ようとはしない。

それから岩上さんは、奥さんの大変な不評と不興を無視して、珍しく自分の我を通し、マンションの近くに月極めの駐車場を契約した。

彼は現在、そこに愛車を置いている。洗車や整備に赴く際も、マンションの駐車場は大きく迂回をして、横切らないようにこころがけている。

シェアする

フォローする