店の窓から(東京都) | コワイハナシ47

店の窓から(東京都)

大都会の地下に眠る〝都市伝説〟

某工業協会の末端で、本人が言うには「使い走り」をして糊口をしのいでいるという藤岡さんには、高校時代からつきあいのあるアネヤという友人が、いる。

建築設計士をやっていて、そうとうあくどく儲けている──そういった噂であった。専門分野のまったく異なる藤岡さんは、ときおりアネヤ氏と会っても、お互いの仕事のことはめったに話題にしなかった。

一つには藤岡さん自身が自分の収入に多大な不満と不足とがあったため、羽振りがいいというアネヤ氏に対して、いくぶん嫉妬の感情が混じっていたのかもしれない。

それを察してかどうかはわからないけれど、たまに会うとアネヤ氏は食事などの勘定を、たいていもってくれるのであった。

昔の友人たちから、あまりよく言われていないアネヤ氏であったから、彼は彼で気のおけない仲間というものに飢えていたのかもしれない。

また、一方ではアネヤ氏は、変人とまではいかなくても、昔から興味を抱く方向性や話題の趣味が、どうにも一風、変わっているのだ。

その夜。

藤岡さんが久しぶりのTELで呼び出されたのは、東京都内の渋谷のD坂近くにあるバーであった。

テナントビルの三階の一角にあって、あまり雰囲気のよい店では、ない。

「よう、藤岡。元気だったか?」

先にきていたアネヤ氏は、窓際の席に陣取っていた。二言三言挨拶を交わして、藤岡さんは友人の向かい側の席に腰をおろした。

「……知ってるか。藤岡。このD坂の近くには、昔、有名な幽霊屋敷があったそうだ」

「へえ──そうなんだ」

第一声から相変わらず話題が一線というものを越えている友人に、藤岡さんは生返事を返す。

が、アネヤ氏は藤岡さんの態度には、おかまいなしであった。

「本当だぜ。ある文豪が実事譚として著書に書いている。このあたりじゃ知らない者が、いなかったそうだ。

その家で暮らした人間は、次々に精神に異常をきたしてね。異様な躁状態になって通行人に口では言えないようなものを投げつけるやつ。反対に自分の顔に死相があらわれていると思いこむやつ。病院送りも一人や二人じゃなかったらしい。連中はその家で暮らしているうちに、例外なく、ありえざるものを見聞きしたらしい。そう、得体の知れないものをね」

「……へえ」

「その、いわくの家が、どのあたりだったのかは、いまとなってはわからない。ハハハ!面白いじゃあないか。ひょっとすると俺たちのいまいるここが、その幽霊屋敷だったかもしれないぜ。その跡地にこのビルは建っているのかもしれん」

「……アネヤは、相変わらず、そのテの話が好きだな」

A氏はあきれたように、注文した水割りを手にとった。そうして一口飲む。

「人間世界の金がらみのドロドロには、あきあきしているのでね、俺は」

藤岡さんの皮肉にも、アネヤ氏は少しも悪びれない。

「建物の強度を維持したまま、コストはできるだけ下げろ。できなきゃ計算のほうを甘くしろ。なに、しかるべき筋に鼻ぐすりをかがせているから、どうってことはない──と、こうさ。連中、ムチャクチャ言いやがるよ。

ま、そんなことはいいさ。ところで藤岡。二、三日前のA新聞は読んだかい?」

「A新聞?それならウチの休憩室にもおいてあるけれど。なにか特別な記事でもあったかな……」

水割りをもう一口飲みながら、藤岡さんは首をひねった。

「いやいや。一見したところでは退屈な記事さ。

地下鉄でね。靄か霧のようなものが走行中の車両の前に漂っているという報告が、ときたま運転士からあるらしい。

もちろん、火災の煙やケーブルの異常で、そんな代物が発生することだって、ある。もしそうなら、大惨事になりかねない。

ところがな。報告を受けて実際に保守点検の連中が現場に駆けつけて調査しても──『異常ナシ!』という結果が出るのがほとんどなんだそうだ。

だったら目撃されたとかいう靄のようなものっていうのは、いったい、なんなのかね?」

「……わからないな。少なくとも僕は専門家じゃあ、ない」

アネヤ氏は少し、身を乗り出した。

「新聞にはたいてい、運転士が『ほかのものを見誤った』なんて書かれている。けれどもここが肝心だ。仮にも地下鉄だぜ。いったい、見誤る、ほかのどんな『もの』があるっていうんだ?

景色は単調でしかも闇に近い。人間はおろか、動くものは動物だって、まずいない場所だ。天候にも左右されない。それなのに、いったい、なにを見間違うのかね?……なあ、こう考えるとミステリーだとは思わないかね。たんなる埋め草扱いの新聞の記事も」

「それは、まあ確かにそうかもしれないけれど。しかし、アネヤ。君はわざわざそんなことを聞かせるために、今夜呼び出したのかい?」

アネヤ氏は、少し濡れたテーブルの上を、細い指先でこすって、

キーッ

と、かすかな音をたてた。

「いいやいや。いまの話を念頭に置いてもらったうえで、実は君に見せたいものがあるのさ」

そこで氏は、腕時計にチラッと視線をやった。

雑居ビル、午後一〇時の怪

「九時五〇分か……ほどよいところだな。そろそろだ。なあ、藤岡。この席からは隣のビルがよく見えるだろう。だから、この席にしておいたんだ。見てみろよ。そこの二階の真ん中あたりの窓だ」

「?」

わけがわからないまま、うながされた藤岡さんは窓越しに隣のビルを見た。

そこもやはりさえない雑居ビルで、この時間、明かりがついているのはアネヤ氏の指摘した二階の中央にある部屋だけである。

これだけは大きな窓の向こうで、初老の男性がなんだか慌てた様子であちらこちらと動きまわっているのが、うす暗いこちらのバーからはよく見えるのだった。

「アレが──どうかしたのかい?」

アネヤ氏は、首を振った。

「いやいや。あのじいさんが、どうこうというわけじゃあ、ない。あそこはなんとかっていう弁護士事務所だ。……いや、弁理士だったかな。

まあ、そんなことはどうでもいい。数人しか人のいないちいさな事務所だ。ま、それはいい。……いま、じいさんがくるくる動きまわって帰り支度をしているだろう?」

「あれは帰り支度なのかい」

「そうだろう。書類を片づけたり、電源を切っていったり、セキュリティーを確認しているんだろうな。なんにしろ、あのじいさんは一〇時までに、あの部屋を出るんだ。それはもう、絶対に、だ。一〇時以降はじいさんはもちろん、ほかの事務所の人間もいようとはしない。いたためしも、ない。

自分がこの店に通うようになって、三ヵ月ほどになるんだが、あるとき、気づいたのさ。この店の店員たちも気づいているかどうか──窓際で隣のビルをぼうっと見ていたら、ふつうは仕事にならないからな。

一〇時には、あの事務所は明かりを落として、非常灯だけがついている状態になる。つまり……無人だ」

藤岡さんには、どうにもわからなかった。

「どうも──君の言わんとしていることがわからないな。アネヤ、君はそもそもなにが言いたいんだ?あの事務所は一〇時までに全員が退勤をする。……ま、どこも景気回復傾向というわけじゃあないからな。残業をするほど仕事がないのかもしれないし、経営者が手当てを出すのを嫌っているのかもしれない。だいいち、先方の勤務システムのことはわからないんだろう?一〇時という時刻が既に残業分の終了時刻だとしても、そいつは先方の勝手だ。それならそれでいいじゃあないか。それの、どこがおかしい?」

キッ!キーッ、とテーブルの上が指でこすれる。

「いいやいや。君の言うとおりさ。そうならなんの問題もない。………………けどな。君の言う総退勤時刻の一〇時以降も、あの事務所には『なにか』──いる場合があるんだ」

「なに?」

「ほら。明かりが消えたぞ。いま、ちょうど一〇時だ。今夜はどうかな……。なにしろ、毎日というわけじゃあないんでね……」

人間とは思えない動きをする物体

藤岡さんは、わけがわからないまま、アネヤ氏が指差す先──隣接するビルの二階に視線を向ける。

……やや上から見える室内は明かりが落とされて、非常灯が毒々しい緑色の光を投げかけている。

机や椅子などが、ブラインドのおろされていない窓越しに、まあなんとか判別できる光量だ。

(アネヤはどういうつもりなんだ?あの事務所がどうだっていうんだ。どうかしてるよ)

「……『なにか』いるって言ったよな。アネヤ。なにがいるっていうんだ」

「さあ」

そっけなく答えたアネヤ氏は、初めて自分の前におかれた飲み物に手を出した。しゃべり過ぎて喉の乾きをおぼえたのだろう。

ぐびり。

「とにかく巡回してきた警備員のたぐいじゃないことだけは確かだ。あんなビルにそもそも巡回警備がいるとも思えんがね。それから忘れ物をとりにきた、事務所の関係者でもない。なぜそう断言できるかは、そのうちわかるさ」

ぐびり。

「なぜか満月と新月の前後に多いようだ。これも理由はわからないがね。で、今夜は満月──────だろう?だから、たぶん」

ぐびり。

「おっと!藤岡。君はやっぱり運がいい。……見ろよ。見てみろよ」

非常灯の前を、影が………………よぎった。

(人影?)

けれども、「それ」は身をかがめると、よつんばいの──蜘蛛を思わせる格好で床を動き始めた。

そうやって、

ぞぞっ、ぞそぞっ

と、家具の間、備品の間を動きまわるのだ。

ぐき、ぐきり。ごぎり

と、ときおり、手足がありえない方向にねじまがる。………………首も、だ。

非人間的な動きであった。そう、人の動きなどではありえない。

「最初は空き巣かと思ったよ。そう、ビル荒らし。多いそうだからな。

けれど、ドアは開いたためしが、ない。

いつのまにか、『あいつ』はあそこにいるんだ。セキュリティーも作動しない。ああやって、ソファーの間、机の間を這いまわっていれば、当然センサーが感知するはずなのにな……」

とつとつと話すアネヤ氏の言葉が、藤岡さんにはずいぶん遠いものに感じられる。いまや彼は、数分前の疑問や不審を忘れて、「それ」に見入っていたから。

「……ときおり、まるでこっちが見ていることを知っているみたいに窓もさわるんだ。

べたっ

と、ガラスに白い手形がついてね。距離があるのに、あのときはどきっとしたよ。そうして、いつのまにかいなくなる……」

アネヤ氏の言葉どおり、やがて「それ」は見えなくなった。

あとには空虚な明かりの落とされた事務所が望めるだけだ。

……それだけだ。

現代社会のはざまに蠢く化け物

藤岡さんは、自分が半分ほど中身の減った水割りのグラスを痛いほど強く握りしめていることに気がついた。

「な、何なんだ──アレ?」

「さあ」

アネヤ氏は、さっきとまったく同じ調子で言う。

「確かなことは、あそこの事務所の連中は、アレのことを知っているということだ。だから一〇時以降には事務所は無人に、なる。たぶん、そうしておけば、とりあえず無害、なんだろう──『アレ』は。

そうしなければどうなるか。過去に正気か、それ以上のものを脅かすできごとがあったのかどうか。そのあたりはなんとも言えないがね」

「…………」

ぐびり。

「もちろん、あそこの連中に直接たずねてみることはできるだろう。

が、そんなことをしてどうなる?妙な事情を知ってしまって、変な縁でもできてしまったら?

いまの段階なら、文字どおり自分たちは傍観者ですむわけだから、な。まあ、こういったものの懐疑派の代表のような君に、一度見せておきたかったのさ。

地下鉄のミステリーもそうだが、世の中、いろんなことがある……ってね」

ぐびり。

藤岡さんは正直なところ、狐につままれたみたいな心境であった。

たったいま、垣間見たのははたして本当に怪異の領域だったのであろうか。

ひょっとして、アネヤ氏の手のこんだトリックに惑わされているのではないだろうか──と。

だがしかし。

「あれ」を見たときの言葉にできそうもない感覚。原始的な恐怖にも通じる理屈ではない感覚。

これをどう説明したらいいものか。

(人間の動きなんかじゃあ、ない。人間ができる動きなんかじゃ、なかった。………………人では、ない。人なんかじゃ、ない。ありえない)

だったら、つまり、それは、だから。

震える手でグラスをいったんは持ち上げようとした藤岡さんであった。

けれども手はいうことをきかず、結局彼は、グラスをテーブルに戻すしかなかった。

──慎重に。

キキッ!

キィィィィ!!

例のテーブルを擦る音で、藤岡さんは、

ハッ

と、我にかえる。

アネヤ氏が、じっと自分のほうを見ていた。

「あれがなんなのか。誰もはっきりとしたことは言えない──そうだろう?しかし、現に、いる。少なくとも、そう見える。そう思える。ひょっとしたら例のD坂の幽霊屋敷が建っていたのは、ここじゃあなくてまさにあそこだったのかも、な。懐疑派の君も、ちょっとものの見方が変わったんじゃあないのか?」

「………………」

藤岡さんは、なにも言えなかった。

キッ。キキーッ!

アネヤ氏の指がテーブルの端を往復して、擦過音が響く。

「関係各方面への袖の下やら、地上げの再開やらで、町はどんどん、住んでいる人間の意思なんか無視して、その姿を変えてゆく。いつ大地震がきてもおかしくないというのに、欠陥建築はまかりとおる。そして、そのはざまに『ああいうモノ』が棲んでいる。潜んでいる。こちらがことさらに手を出さない限り、ひっそりと、うじうじと。……な?」

キィィィィ!

「どう思う。本当の化け物はどちらなのかね?生きている人間のほうが、よっぽどあくどくて、あからさまだ。……と経験上、思うんだがね。君はどう思う?」

……藤岡さんは、また窓の外を見てみる。視界の下のほうには──あの暗い事務所のなかには──なにかがいるようでもあり、そしてまた、いないようでもあった。

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