もの食うはなし(近畿地方) | コワイハナシ47

もの食うはなし(近畿地方)

電車の中に漂う悪臭

中居君は、関西に多い某喫茶チェーン店で働いている青年である。

彼が言うには自分の目が、どうかしているとしか思えない場面に出くわすことがままあり、それらにはある共通項があるのだという。

『……といっても、心霊がどうしたとか──そういうことじゃ、ないんです。もっとも自分では幽霊に出くわすよりも………………イヤですね。あれは』

最初は、ふだん使っている電車のなかだったそうだ。

中居君は電車で通勤しているのだが、その日は遅番でラッシュ時には間があり、電車のなかは空いていた。窓からは、さんさんと陽射しが入ってくる。彼は座席の一つに腰をおろして、リラックスしてコミック雑誌を読んでいたのだが。

(なんだろう?)

その──「臭い」に気がついたのは、それからまもなくであった。

油。それも、食用油の臭いだ。職業柄、そういったものに敏感な中居君であった。それで横を見ると、二、三人分の間を空けて、老人が一人座っている。

作業服姿の、六〇代にも七〇代にも──どうかすると八〇歳に達しているのではないかとも思われるご年齢のよくわからない男性だ。安っぽい野球帽を被った頭は白髪に近いが、肌の艶はいい。不思議なほどツヤツヤとして光っている……。

その老人が、紙に包んだなにかを食べている。油で揚げたなにかのようだ。フライドチキンだろうか?漂ってきた臭いは、そこから発していたのだ。間違いない。

中居君は、顔をしかめた。いまや、電車のなかで、ものを食べる光景など珍しくもなんともない。スナック菓子やパンのたぐいなら、まだ可愛いものだ。多くの若者はファストフードをところかまわず散乱させているし、バッグのなかのペットボトルなどは、男女を問わず必需品にしている者が増えていると聞く。さらには床に座りこんで、デパ地下から買ってきたらしい弁当を広げ始める猛者までいる始末だ。

しかし。衆人環視のなか、フライドチキンを電車内で頬張る老人というのは、初めて見る中居君であった。

(なるほど。公衆道徳の最後の砦ってヤツが、崩壊する現場に立ち会っているんだなあ……)

変な感心のしかたをしていた彼だが、しかし、老人が頬張っているフライドチキンの臭いが、妙に鼻を突くことに注意が行き始めた。

確かに満員ではないとはいえ、狭い車両のなかだ。ほかの臭い──香水やら汗の臭いやら──と混じって、油のそれが鼻を突くのは当然だ。だが、その臭いは独特であった。酸っぱさのなかに、苦汁のようなものが混じっていて、嗅げば嗅ぐほど、嘔吐感すら伴うものになってくるのだった。……悪臭、と言っていい。

まわりの乗客たちも、似たような感想だったらしい。あからさまに、鼻を押さえている女性も何人かいた。別の車両に移ろうと、席を立つ人もいる。

(腐っているんじゃないのか、あのフライドチキン!)

老人の座っているところから比較的近いだけに、中居君も、徐々に堪え難くなっていった。それで彼は、なにげないふりをして席をかわろうとしたのだが。

………………ボドン

まさにそのとき。黙々と食事をしていた老人の手から、大きなコロモの塊 が床の上に落ちた。中居君の目が、くわっと開かれた。

コロモから飛び出ていたのは、鳥の肉ではなかった。骨でもなかった。そもそも鶏肉など、そこにはなかった。

(!)

黒い──────真っ黒い、ツヤツヤと光る、ちいさな角。

見間違うはずもなかった。それは、虫の角であった。虫の体の一部なのであった。………………カブトムシの。

(げえっ!)

老人の手元の紙のなかには──何匹分かわからないカブトムシの胴体が、嚙み潰されてはいたけれど、原形をとどめてのぞいていた。どろ~り……と体液を、したたらせて。

老人はフライドチキンを食べてなど、いなかったのである。

虫を………………カブトムシにコロモをつけ、油で揚げ、それを紙に包んだものを頬張っていたのだ。

くちゃくちゃと。ばりばりと。もぎゅもぎゅ……と。

黙々と。淡々と。静かに。なんでも、ないかのように。

「………………」

次の行動に移れないまま、老人とその手元をかわるがわる見る中居君のほうに、老人特有の緩慢な動きで、その顔が向いた。ツヤツヤとしたピンクの肌。それをのぞけば、平凡な顔であった。ただただ平凡なだけの──顔。

にちゃあ

白っぽい汁と黄色い汁とが、ぐちゃぐちゃになって、こびりついている老人の口の端から──カブトムシのトゲのある脚が一本突き出ている。それは、老人の口の動きにあわせて、あたかも生きているかのように動くのだった……。

暑さで体調をくずしたのか

街なかでも、こんなことがあった。

夏の暑い最中で、誰もが、どうかなりそうな熱気であった。非番で、リサイクルのCDを物色しようとそのテの店に向かって歩いていた中居君は、すぐそばを歩いていた女性が、突然屈んだのを見た。薄着の──若い女性だ。自分と年は、そういくつも違わないはずである。

(つまずいたのか、それとも体の調子でも悪くなったのか……この暑さだからな)

きわめて常識的な可能性を、いくつか考えた中居君は、声をかけるべきかどうか数秒考え──その間に女性のやや前に出て振り返った。もちろん、容貌を確かめてから傾向と対策を決めるためである。

けれど女性の前に出たとたん、そんな考えはどこかに行ってしまっていた。彼女の顔は……まあ、好みと言えば言えなくもなかった。それは、まあ、いいとしよう。問題は、女性が屈んでいた理由だ。結果から言えば、彼女は靴の調子が悪くて脚を痛めたのではなかった。本人ではないから気分のほうはなんとも言えないが、少なくとも腹痛のたぐいでは、けっしてない。

なぜなら──────彼女はカナブンを、いじくっていたのである。

そうだ。虫のカナブンだ。光沢のある、あの甲虫である。少し以前なら誰もが子供の頃、昆虫採集という名目で追いかけたことのある、あの──カナブン。

どこから、まぎれこんできたのか。そのカナブンは、緑もろくにない街なかにいて……そして、腹を見せていた。死にかけているのである。

わずかに六本の脚が、わきわきと動いている。

そんな弱ったカナブンを女性は大きな丸い目で、じっと見つめ、なにを思ってかときおり長い指の先で突っついたり、転がしたりしているのだ。

(虫好きなのか?女の子が?でも、弱っているのをあんなに扱うのは)

感心できないな、と中居君が思った矢先。女性はそのカナブンを、むぞうさに摘みあげ、そして………………口のなかに、放りこんだ。

(──────アッ!)

「ぶじゅっ」と「ばりっ」の中間の音が、彼女の口のなかから聞こえた。

それから、ぐぢゅぐぢゅぐぢゃぐぢゃと、口のなかのものを咀嚼する音も……。

中居君は女性が口のなかのものを飲みこむのとは正反対に、胃のずっと奥のほうから苦いものが、やってくるのを感じていた。

(なんだ?いま、あの子………………なにを、した?なにを口に入れて、それから?)

女性は、傍らに立つ中居君などまったく気にするそぶりも見せず、すっくと立ち上がった。そうして、何事もなかったかのように──おそらく、それは彼女にとって、そうであったに違いないが──再び歩き始めて、やがてほかの人影にまぎれて見えなくなっていった。

通行人は誰も、なにも気がつかなかったようだ。中居君すらも、真夏の熱気が生んだ白日夢に思えるのだった。

中居君の、

『自分の目が、どうかしているとしか思えない』

という目撃譚には、偶然で片づけるには、あまりにも奇態な共通項がある。

その最新のものは、中居君自身が勤めている店内で目撃したものだそうだが……これについては彼は、ついに話してはくれなかった。

おそらくそれは、口に入れることを想像するだけで──────ただそれだけで。脳の心棒がどうかなってしまいそうな虫を、これ以上はないというくらい自然体で、これ以上はないというくらい、ふつうに食べる人の話なのだろう。

……そうだ。

それを口に入れるというだけで、ふつうなら、どうかなってしまいそうな虫を。………………虫を。

シェアする

フォローする