鬼怒砂丘慰霊塔(茨城県常総市若宮) | コワイハナシ47

鬼怒砂丘慰霊塔(茨城県常総市若宮)

タクシーの運転手をしている樋口さんの話だ。岩手の出身で、言葉も東北弁の名残がある、茨城弁とは少し違うが、特に問題はなかった。宮城や福島からも茨城に移住している人は多い。和やかな東北弁は聞くだけで癒される。

二十年ほど前の夏に乗せたおばあさんの話だ。

ちょうどお盆の前の頃だった。

旧陸軍の慰霊の塔があり、そこには戦死者を弔うための碑が立っている。終戦記念日の八月十五日にはお参りをしている、というおばあさんがいた。お兄さんをビルマ戦線で亡くしたという宮城から来た人だった。

その日は亡くなった親の初盆でどうしても来れないので、その前にやってきたという話だった。駅前で乗せて、東北弁で話しながら故郷を懐かしんだ。

鬼怒川のほとりの丘に建てられた、一風変わった建物だった。金色の屋根に白い壁。初めて外観を見て樋口さんも惹きこまれた。樋口さんの親戚も戦死した人がいたからだ。

「うちの伯父も戦争で逝っちまったべさ」

おばあさんとは話が合い、足が悪そうだったので、塔の中まで歩いて連れて行ってあげることになった。おばあさんはとても喜んで頭を何度も下げた。

昼間はとてもきれいに整備された公園といった感じであった。

おばあさんと一緒に慰霊碑に頭を下げた。おばあさんが座って拝むので、樋口さんもしゃがんで手を合わせた。手を合わせるとき、つい目を閉じてしまう癖があった。

その時だった。

何となく視線を感じて目を開けると、ズラリと足が見えた。白く包帯でまいたようなゲートル(戦時中に兵隊が足につけていた物)、汚れたような裸足の足、黒っぽい汚れた軍靴。明らかに軍人達が自分たちを取り巻いて立っているのがわかった。

おばあさんと自分を取り囲むように、そして静かに立っている。

背筋が凍りつくような戦慄を覚えたが、そこでは何も声を発することなく、おばあさんを介助して立ち上がった。

立ち眩みをした瞬間、立っていた一人の軍服の男が敬礼したのが見えた。

その軍服はもう半身が出ている程ボロボロで、顔も半分包帯に巻かれ、片腕がなかった。

(これは生きている人じゃない。ビルマで亡くなった軍人さんの亡霊だ)

深々と頭を下げ、通りすぎた。

おばあさんには後で言おうと、タクシーに乗ってからさっき見た軍人さんの話をした。

するとおばあさんは涙を流してこう言った。

「兄さんはお骨も無くてえ、骨壺に紙切れ一枚だったべさ。どんな最後だったかもわがんね、それはきっと兄さんに違いねえ。あんがとなあ。これ釣りはいらねえですから、お礼だあ」

と、駅に着いて出るときに一万円札を置いてくれ、出て行った。

倍以上の乗車賃に、これはもらいすぎだ! と慌てた樋口さんは、

「お客さん、こんなこといくらでもねえですって、お礼なんてえ」

とお釣りを用意して運転席のドアを開けると、そのおばあさんは消えていた。

足が悪くてヨタヨタとしか歩けなかったはずなのに。

駅も見渡したが、そんな人はどこにもいなかった。

それからだった。この慰霊の塔では、傷だらけの軍人の霊や、泣いて慰霊碑にすがりつく老婆の霊、そして鬼怒川周辺を歩き回る軍人たちの集団を見かけると噂が立ち始めた。

骨は日本には戻れなかったが、魂はこの地に戻っておられるのかもしれない、と樋口さんは思い出していた。

「おっかなかったべさ。夜にここに連れてってくれって人もいたんだべ。そんときは、何度も座席に乗ってるか確認したさ。いねぐなったときもあったべさ。特にお盆の頃な」

着いたときに振り返ると乗っていない、そんな体験もあったという。

この慰霊の塔を建てたのは、常総市にお住いの稲葉茂さんであった。

太平洋戦争時、日本陸軍最年少の将校として、ビルマ派遣軍におられた。

ビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦要員として最前線で戦った。飢えやマラリアに苦しみながら、多くの仲間が無念の死を遂げた。奇跡的に生還した戦後は私財を投じて、戦友たちの供養に慰霊塔を建立。ミャンマーの古戦場を巡礼し支援も欠かさない。

当時の兵士たちの心のより所だったミャンマーの仏塔「パゴダ」を模して設計し、場所は最上階から見下ろす風景がミャンマーを思わせる鬼怒川東岸の鬼怒砂丘を選んだという。

この旧石下町からも百三十五名が出征したが、生還できたのは二十五名のみだったそうだ。

鬼怒川を散策する軍人達の魂は、戦友に感謝し、ゆっくり佇んでおられるのだと思う。

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