水戸赤沼牢 天狗党の乱(茨城県水戸市東台) | コワイハナシ47

水戸赤沼牢 天狗党の乱(茨城県水戸市東台)

水戸市内で最も霊気を感じる場所はここだろう。赤沼牢屋敷と吉沼磔刑場跡だ。

水戸駅は水戸藩の居城にほど近く、そして幕末には三百五十人もの処刑をしたという赤沼牢屋敷もその敷地近くにあった。

元々水戸駅の南口は千波湖が広がり、後々の埋め立てで現在の姿になっている。北口の方が古めかしい情緒があるのはそのせいだろう。

弘道館や水戸城跡へは高台に上るのはその元々の地形にある。

徳川御三家の水戸藩の幕末は混乱を極めていた。

天狗党の乱が勃発し、藩内で戦争となった。大洗や那珂湊では大砲の打ち合いが続き、何人もの犠牲者が出た。しかもそれを誘導したのが、水戸藩家老の武田公雲斎、藤田東湖の子、藤田小四郎であったから大問題となった。

最後は福井で捕らえられ、水戸の赤沼牢に入れられる。臭気漂うひどい牢に入れられ斬首。その首はあちこちの高札場でさらされた。

しかも、関係者の妻子供、孫までが殺されるというありさまだった。武田公雲斎の子供はまだ三歳だったが、命乞いして「おじさんごめんなさい」と泣きすがるにもかかわらず、胸を一突きして殺された。だが生き残った孫はその後恨みを晴らすべく、勢力の変わったときをみはからい、その時に一族郎党を皆殺しをした諸政党の虐殺を始めた。

血で血を洗った時代があった。

これだけの尊王攘夷の先進的な学問を身につけた武士達が、明治政府では一人も排出できなかったのはこうしたお家騒動があったためだ。有能な人材が皆死んでしまったからだ。しかもその後継者まで。斬首、野ざらしの上、墓にも葬られていない遺体がある。

そして、首なしの胴体は吉沼刑場に持って行かれ、穴に埋められた。

その場所を『土壇場』と呼んでいる。現在は東水戸駅近くの公園になり慰霊碑がある。

また土壇場では、首なしの囚人の死体を日本刀の試し切りにも使ったというから、ここでの死体への怨念は尋常ではないだろう。

昭和の初めまでは、土から引きずり出した遺体の肉や骨をむさぼる野犬がいて、臭気も凄まじかったそうだ。霊を見た者よりも、遺体の断片を見た者の方が多かった。

昭和十八年にこんな場所でも、食糧事情のために水田にしようとした。

だがその実った米を食べた人が皆病気になってしまい、供養の塔を建てたとの事だった。

水田もやめて元の姿に戻した。

磔のあった刑場も道路を挟んだ場所にあり、今は荒れ地となっている。ここは妙に土が盛ってありその姿は塚そのものである。こちらには慰霊碑はない。

戦後、吉田屋製材所の所有地となっていた赤沼牢屋敷跡地の千坪が、銀行で競売になりそのうち六百坪を根本常次郎さんが買い求めた。

そして昭和二十六年、妙法寺のお坊さんの七十日に渡る慰霊の断食も行われ、慰霊碑は建立された。

それはこの牢の跡地近くで下水溝工事の掘削をしていた人夫が言い出したことによる。

「ここの土の色は異様だ。赤土とはいえ、異様に赤い」

染みついた土に流れた血は塊となり、百年経ってもなおその昔の惨劇を語る。

その周辺土地には霊の通り道があり、苦しむような声や、首なしの霊を見かけたという情報は多い。

その場所は事情があって伏せるが、それはまだ成仏できない刑場の霊ともいえよう。

当時の凄惨な現場を綴ったものを抜粋する。

赤沼牢の処刑場は、その空堀を越えて板塀に取りつけば、ところどころの節穴から刑場の有様がうかがえた。

平地に縦二尺ばかりの穴を掘り、その穴の前に囚人を座らせ、番太郎が囚人の首を穴の方に突き出せば、執刀者は狙いを定めて掛声もろともこれを斬り落とした。

死刑囚は殺される朝にサイの目に切った豆腐を食わされた。

城下の町人達は明治、大正になっても豆腐をサイの目に切る事を嫌い、首を斬る時の音に似ているというので濡れ手ぬぐいの端を両手で持ちパッと音をたてて広げるのを嫌がった。

果たして、今その赤沼牢の跡地に何があるか、あまり考えたくはない。

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