天狗党の慰霊碑(茨城県 保和苑 回天神社) | コワイハナシ47

天狗党の慰霊碑(茨城県 保和苑 回天神社)

水戸から車で五分ほどの場所に、保和苑がある。湧き水の池に庭園のこの作りが東京にある水戸藩屋敷跡の小石川庭園の池をミニチュアにしたような雰囲気だ。

月浦さんと水戸での取材のあと、天狗党の話になった。

「水戸から車ですぐのところに、水戸藩士の殉死の墓所がありますよ。用事がある方向に近いので送っていきます」

というありがたい話から、保和苑に行くことになったのだ。

水戸光圀が名付け親となった保和苑の隣の敷地に水戸藩士の天狗党の乱や他で殉死した武士の墓がある。

天狗党の乱では三百五十人も死罪となった。家族郎党まで殺された。

また、福井藩に預かりとなった罪人は、手足を小さなニシン倉庫に詰め込まれ、糞尿も腐った魚も一緒で、悪臭漂う中二十人も死者が出たという。その実際のニシン倉庫が展示されている。中には絶筆まで残っており、異様な雰囲気がある。わざわざ歴史資料として残しているが、相当な怨霊の念を感じる場所だった。もし志士の霊がいるなら、二度と戻りたくない場所だろう。

藤田東湖の著書にある言葉『維新回天』から名付けられた回天神社がある。明治維新という言葉もここからできていただろうし、太平洋戦争の人間魚雷の『回天』もこれから名付けられた。

その向かい側に水戸烈士の墓が立ち並んでいる。隊列のように名前を書かれた墓石が立ち並んでいる。

入った瞬間のすさまじい霊気と冷気が、晩秋の夕暮れの早さとともにやってきた。志士の墓はシンプルで、どれも形がにているが、その量に驚く。

一体なぜこうも有能な志士たちが、命を懸けて守りたかったものがいまだに見えない。

「本当は、天狗党を作った人たちも、幕府を倒そうとかは考えてなかったみたいなんですよね……」

月浦さんがつぶやいた。

「この内乱があったせいで有能な志士がいなくなり、明治政府にも水戸藩士は入れず出遅れたと言われてるんです」

しかし、南の出身の僕には、葵の一門となる、しかも水戸藩出身の徳川慶喜公の藩士が明治政府に入ることはなかっただろうと推測する。

西郷隆盛も単なる田舎の下級郷士でなく、熊本の名門、菊池一族の末裔である。彼の家紋、『重ね鷹』は一族しか持つことができない。家柄の信用があるからこそ、重用されていった。

家柄は武士が着ている紋付袴の家紋でわかる。いわゆる身上書や先祖のことを家紋一つでわからせる。坂本龍馬も明智光秀や加藤清正の桔梗紋が入っていたことも意味があるだろう。桔梗紋は悲劇が多いとも言われるが、真言宗智山派はまさに明智家と同じ桔梗紋である。いちがいには言えない。

普段は数珠を持たずにお墓で手を合わせないが、そのときは月浦さんに合わせて、数珠もなく手を合わせた。

何となく手を合わせた瞬間に、全身に悪寒が走った。

このままだと寒気を通り越して、風邪をひきそうだ……と思い、墓群に一礼して写真に収めた。

そのあと保和苑の美しい泉を見た。

和を保つことが、水戸光圀の願いだったのだろう。

調和する夕焼けの空と、震えるような水紋のひずみが空を写し、また違う思いに駆られた。

「あの、茨城県護国神社も行きますか? それも車だとすぐだから、送りますよ」

と嬉しい提案をしてくれた。もし彼が行こうと言わなかったら、神社にはいかずに帰った。必ずこういう場所に行った後は、お祓いを受けることになる。

その後の怪奇については、本著にも載せている。

家に帰り、霊感のある友人に回天神社の前の烈士の墓を見せた。

「うわ、すごいところに行ったね!」

「雰囲気はすごかったね」

「いやいや、この写真ヤバイよ。すぐ消しな」

「どういうこと?」

「この細い墓の上にそれぞれ生首が載ってるよ!」

僕が感じた霊気はそのことだったのだろう。

回天神社では桜田門外の変や天狗党の乱などで亡くなった志士たちを祀っているため、彼らに対する慰霊と結界を張るように建立されたのであろう。

水戸藩でも改革派と保守派に分かれており、徳川斉昭を擁護した藤田東湖は重用され、その子、藤田小四郎が天狗党を結成していく。

武田耕雲斎も小四郎に誘われ、天狗党の首領になる。最後は捕まり、非業の死を遂げる。家族も死刑となった。敦賀には彼の銅像と墓石がある。

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