血だまりの影(大阪府) | コワイハナシ47

血だまりの影(大阪府)

さびれた地下の「シャッター街」

大阪の二大商業地域の一方は地下道がアリの巣のように、四方八方にはりめぐらされている。いくつもの地下鉄をつなぐ連絡通路と、それに応じて発展していったショッピング街。それらが実際に層をなしているわけだが……。

それら地下連絡通路の一つを通勤コースにしている公務員の霧島さんは、晩秋のある日、職場からの帰途に、ふと足を止めていた。

彼女がいるのは連絡通路のなかでも、さびれているほうだ。バブルの以前、あるいは絶頂期に計画され、展開された地下街のなかには、その後の不景気に適応しそこねて衰退し、開いている店よりも閉まっているシャッターのほうが目立つところも、ままある。各地に最近増加の一途をたどっているという、いわゆる「シャッター街」の地下版といったところか。地上のオフィスビル、そして地下二階にわたってひろがっているここ――××ビル地下街も、ご多分に漏れないのだった。

なるほど、規模は広い。乗り換えや悪天候を避けての人通りは、それなりにある。けれども、だからといって通勤コース以上の意味は、もうあまりない場所。ショッピング、レジャー、そんな単語が、とっくの昔に空々しくなっているところ……。

そんな場所の地下二階を、霧島さんは私鉄のターミナルに向かって、いつものとおり歩いていたのだ。脇目もふらず――というより脇目をふるような魅力も催しも、それまではいっさいなかった、無味乾燥そのものの通路であったのだけれど。

(何か、あったのかしら?)

夕刻だというのに、閉まっている店々のおかげで通路には照明が物足りない。当然、賑わしさとは、およそ縁というものがない。……で、あるはずなのに、その端のほうになぜか人垣ができている。人が集まって、ざわざわがやがや、と何か言い合っている。首をのばし、前にいる人間の頭越しに何かを見ようとしている者もいる。

珍しいことであった。何か、タイムセールのたぐいでもやっているのだろうか。

(それにしては変ね)

霧島さんは、そう思った。

人垣は、通路からはみ出していた。そこは、分厚いガラスの間仕切りとドアをはさんで、地上まで吹き抜けの空間になっているところだった。レトロなレンガを模した床と壁面。そして地上まで続く大きな階段があるのは霧島さんも知っていた。階段を利用したことは、ただの一度もなかったけれど。

その、くぐったことのないガラスのドアは今、大きく開け放たれ――階段に向かって弧を描くようにして、人垣が広がっているのだ。

布地をぐっしょりと濡らす赤黒い液体

(タイムセールとか、そういうものじゃない。階段に……何か、あるのかしら?)

通路からは、人垣が邪魔でよくわからない。で、興味のおもむくままに霧島さんはガラスに近づき、間仕切りにそって移動してみた。すると。

(あっ!)

階段の下に――――――何か、倒れていた。

人だ。人に、違いない。

すぐそばに白衣の人間が何人もいて、こちらは救急隊員のようであった。彼らのために、倒れているほうは男ものらしいズボンをはいた下半身と、シャツらしい布地の端しか見えない。が、霧島さんにとっては、それが幸いであった。なぜならシャツもズボンも、真っ赤に染まっていたからである。

……いや、暗い照明のせいで、それらは赤黒く見えた。赤黒い液体が、布地をぐっしょりと濡らしていた。話には聞いたことがあるけれど、文字どおり血が、ぼたぼたと滴る光景というものを霧島さんは、生まれて初めて見た。

流血は、おびただしかった。尋常ではない量であった。倒れている人の下半身を中心にして大きな………………血だまりが、広がっている……。

おそらく――このケガ人は、階段から転落したのだろう。二階分の吹き抜けを、そのまま落ちて床に激突したのかもしれない。レンガを模した堅い床に、するどい階段の端だ。どちらにぶつかっても、ただではすまない。いや、実際、こうやって血でびしゃびしゃになって――。

(――ウッ!……気持ちわるい)

不謹慎ではあったが、しかし正直なところ霧島さんは、そう思わずにはいられない。足を止めなければよかったと、そうも思った。こちらからは見えない上半身――頭部や顔は、どうなっているのか。はじけた、ぬらぬらとした、ざくろの実のイメージが目の前にチラチラして、よけいに気分が悪くなった。

着こなしているスーツは安くはない。万一ここで吐き気でももよおしたら大変だ。無意識のうちに取り出していたハンカチを口にあてて、彼女は立ち去ろうとした。と、彼女の側で――どういう神経か瞬きもせずに、じっと血だまりのほうを見つめている一人の男性が誰に言ったのか、こんなことをつぶやくのが耳に入った。

「この場所。ここってさ。……以前にも落ちたやつが、いたんだよなあ……」

閑散としている吹き抜けの周囲

数日後。霧島さんは、また通勤コースを歩いていた。いや、歩かざるを得なかった。さすがにあの階段下の惨事を目撃して以来、数日間は、迂回をして職場に通っていた彼女だった。けれども、やはりそれでは通勤に支障が出てくる。生活のリズムも微妙ではあるけれど、おかしくなってくる。

(助かったんだろうか。あの人……)

意識して新聞など注意して見ていたのだが、あの事故――おそらくは事故――のことは、どこにも載ってはいなかった。こんな大きな街だと、あの程度ではニュースとしての価値もない。とどのつまり、そういうことなのだろう。

朝、チラリと見た限りでは、例の吹き抜けの空間は清掃されたらしく、血だまりの痕跡すらなかった。あくまでも遠目から、であるけれど。

さびれた地下街だ。シャッターのほうが目立つ店々である。あのときの人垣が噓だったみたいに、吹き抜けの周囲は閑散としている。立ち止まって噂をしている者など、もちろん誰もいはしない。

それが都会での生き方、というものなのだろう。事故も事件も後から後からやってくる。へんぴな田舎みたいに、一つのことを、いつまでも覚えている者など誰もいない。それがふつう、なのだ。

霧島さんも、そのはずであった。

たしかにあれは、惨い光景だった。けれど彼女は当事者でも責任者でも何でも、ない。ただの通りがかりの一人なのだから。

けれども。誰か、あるいは「何か」は、そうは思わなかったらしい。

そうだ。そうは思わなかったのだ……。

誰かが階段のところに……

数週間が――過ぎた。

霧島さんの通勤コースは、変わらない。……が、彼女の意識の底には、あることが澱のように、わだかまっていた。

あの地下通路の吹き抜けにある階段。彼女は、そこで何かを見る――あるいは見るような気がして、たまらないのである。あれ以来、通路を通るたびに自然に視線が階段のほうに、いってしまう霧島さんであった。それほどまでにショッキングな体験であったわけだから、これはしかたがない。

……が。彼女が通行中に視線を向けるたびに、誰かが階段のところにいるようなのだ。

もちろん階段というのは、不特定多数の人間が使用するものだ。誰かいたっておかしくは、ない。むしろ、いくらさびれた地下街に続く階段でも、まったく誰も使用しないほうが変だろう。それでも霧島さんが見るものは、ふつう……とは、言いきれないものがあった。それは――――――人影、なのであった。

何だかはっきりとしない人影が、階段の脇に立っている。ちょうど――あの黒々とした血だまりが広がっていたあたりに、だ。それは、いつもチラリとしか見えない。風貌や身なりを見極める暇が、ない。なぜならすぐに、

スーッ

と、階段の陰に隠れてしまうからだ。

(誰なんだろう?)

霧島さんは、そう思う。地下街には、そうとうひどい格好をした浮浪者のたぐいが徘徊していることも、ある。だったらアレは、浮浪者なのだろうか。

(そうなのかしら?)

それにしても、いつもいつも同じ階段脇にいるということは、ないだろう。地下街にも管理事務所に準ずるものはある。それが放っては、おかないだろう。

まして朝はともかく、彼女の帰宅する時間は時計のように正確とは、いかない。まちまちの時間に、ふと目をやったその瞬間。アレが必ずと言ってよいほどそこにいることを、どう説明づけたらいいのだろう。

(………………妙なことに、巻き込まれてはいけない……)

霧島さんは、いつもそう考えて暮らしている。彼女は三〇代で独身であったが、自立して生活をしているし、処世術というものも心得ているつもりだった。よけいなことには、かかわらない。これが彼女の信条でもあった。その信条から言えば、通勤コースの浮浪者かもしれない人影など、無視しておけばいい。そのはずであった。そのはずで、あったのだが……。

いる………………

人影に気がついて、何週間めだったろう。日の光の差し込まない地下の通路で、霧島さんは再び足を止めたのであった。あの、階段のある場所の、まさに真横で。やはりそれは帰途であった。差し込む差し込まないにかかわらず、日没の時間はとっくに過ぎていた。日光の代わりに――地上の街路樹の葉であろう――ひからびた葉が、吹き抜けの空間の床の上に、バラバラと散らばっていた。

肩からさげたバッグの紐を無意識に、ぎゅっと握りしめてから、彼女は横目でチラと階段のほうを盗み見た。

(………………いる)

あの人影が、ぼう……と立っているのが視界の隅に映る。次に顔を向ければ、おそらくいつものように階段の陰に隠れてしまうだろう。それが……何者であるにせよ。

霧島さんは迷っていた。自分でも理由がわからなかった。日常生活の背景の一部であると割り切って、放っておけばよいものに――かかわらなくてすむものに――自分はかかわろうとしている。

つまり、彼女は人影が何者なのかたしかめたい衝動を押さえきれなかったのである。日頃、心がけていた信条に背いてまで。

(まるで、招き寄せられるみたい。……嫌だわ。何、言ってるのよ。誰も招き寄せてなんか、いやしない。これは自分の意思。自分の意思なんだから)

霧島さんは、そう思った。あるいは、彼女自身、自覚はしていなかったけれど、そう思いたかったのかもしれない。

(どのみち危ないことに首をつっ込むわけじゃ、ないんだから。そうよ。危険なんてあるわけが、ない。ここは都心部の真ん中で、さびれているといっても人通りのある地下通路。そうなんだから)

霧島さんは――――――ガラスの間仕切りのほうに、体を向けた。

スーッ、と人影が階段の陰に、隠れた。もう、何度も何度も見た、そのとおりに。

(きっと……浮浪者よ。リストラか何かのせいで、暇を持てあましている人って可能性もある。そういった人が、こういうお金のかからない場所で時間をつぶして。きっと、そう。きっと――そうなんだわ)

「………………どうかと思うな」

ガラスのドアに手をかけた霧島さんは、ハッとした。彼女のすぐそばで、声がしたのだ。戸の隙間から入ってきた木枯らしみたいな――おぼろげな声であった。

「何、今の?」

霧島さんは、口に出してそうつぶやき、自分がつぶやいたことにも気がつかないまま、周囲を見回した。

相変わらず、物足りない照明。閉まっている店々。そして、通行人は離れたところに数人――彼女の近くには誰もいない。誰も……。

(気のせいだわ)

そう判断する一方で、心のどこかが警告のようなものを発していた。

ガラスのドアを開ける。びゅっと、一陣の風を顔に感じる。吹き抜けは薄暗い。階段の陰は、もっと暗い。誰かが潜んでいるようには、思えない。けれども、例の人影は、そこにいるはずなのだ。吹き抜けの空間から出て行くには、階段をのぼるか、こちら側のガラス戸を使用するしかない。

霧島さんは、前者をのぼる物音も何も見聞きしてはいない。そして後者は今、彼女が入ってきたばかりである。

ガラス戸が………………閉まる。

「あの、そこに誰か、いるんですか?」

……静かだった。地上の物音も、地下通路を往来する人々の気配も聞こえてはこない。何メートルか上には、轟音をたてて無数の車両が往来する巨大な車道と、やはり巨大なオフィスビルがあるというのに?

「あ、あの」

霧島さんは、思いきって暗がりに向かって声を、かけてみた。

「あの、そこに誰か、いるんですか?」

「………………」

無言、が返ってくる。

「そこに誰か、いるんですか?いるんですよね?」

………………べちゃっ

嫌な――音が、した。何かの液体が床に落ちたみたいな。粘液質の、嫌な音が。

(何?何の音?)

ゆらり、と階段の影で動くものがあった。霧島さんの呼びかけに応じて、隠れていた何者かが出てきたのだろうか。………………そうなのだろうか。

ゆらり、と人影とも何ともつかないものが、また動いた。

ぺちゃっ、べちゃっ、という音が聞こえる。濡れた素足で、歩いているような。べっとりとした、かたまりかけた液体の上を、歩いているみたいな。ほら、また一歩――前に。

ゆらり………………べちゃっ!

「――――――!」

霧島さんの頭のなかを、後悔がすごい勢いで占め始めていた。心臓が早鐘を打っている。激しい。とても、激しくなって――。

(どうして自分は、何の得にもならないことをたしかめようとしたんだろう。いつものように通り過ぎて、いつものように無視をすればいいことを、どうしてわざわざ。どうして自分はこんな)

目の端に映るガラス戸の向こうは、ひどく暗かった。通行人は、いる。何人も、いる。だが、こちらに注意を向ける者は、ただの一人もいない。ついさっきまでの自分がそうであったように、皆――それぞれの目的地に向かって足早に歩いている。それだけだ。ただ、それだけだ。

(私もあそこに戻らなくちゃ。戻らなくちゃ。もうたくさん。もう、こんなことは)

霧島さんは、暗がりのなかから出てくるものの姿を認める前に、体をひるがえそうとした。あれを見てはいけないのだ。あれが濡れているとして、何に濡れているか、それを知ってはいけない。

(知ッテシマッタラ――モシ知ッテシマッタラ……?)

「………………どうかと思うな」

霧島さんの、すぐ後ろで声がした。おぼろげな――おぼろげな声であった。

(ヒッ!!)

思わず霧島さんは、そちらを向いていた。それは反射的なものであって、彼女自身、どうにもならない動作であった。そして――――――。

鉢合わせを、した。

「だめ、じゃな、いか。素通りす、るのはど、う、かと思うな」

裂けた唇のためか――男もののシャツとズボン姿の「それ」は、言葉の区切りかたが、おかしかった。

けれども、霧島さんにはきっと、どうでもいいことだったろう。

ずるん!

ぱっくりと割れた顔面。白い骨がはっきりとのぞいている、その奥から、どろっとしたものが、こぼれ落ちた……。

その……地下シャッター街の脇にある階段では、ときどき転落事故がある。構造上の欠陥があるとは思えない。にもかかわらず忘れた頃に次の事故が起こる。誰も関心をはらわないかもしれないが、その数は少なくない。これは間違いが、ない。

しかしながら、霧島さんが、その場に倒れていたのは少なくとも階段から足を踏み外したためでは、ない。これも――間違いがないところだ。

何か、常識の通用しない境界線の向こうに足を踏み出してしまった結果とは、言えるかもしれないけれど。

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