天国の階段から(茨城県水戸市) | コワイハナシ47

天国の階段から(茨城県水戸市)

「彼は偉大な歌手でした。多分誰も真似できない声と心を持って、被災地や世界を廻っていました。まさかこんなに早く亡くなるなんて……でも僕に会いにきてくれたんですよ」

三十年も会社を挙げて応援してきた、ファンクラブの東海支部の村上さんは話される。

昭和を代表する歌謡曲、「四季の歌」や「D51」「イヨマンテの夜」などを透明感ある壮大な歌声で歌い上げる水戸出身の大物歌手がいた。

菅原やすのりさんである。

彼の父は軍人であり、満州事変の時に日本陸軍で活躍した。その後軍属となった。

終戦は奉天で迎え、ロシア軍が攻め入ったときは、屋根伝いに逃げなければならなかった。兄弟が多く、夫婦で両わきに抱えられるのは四人まで。

赤ちゃんの菅原さんだけは連れていけずなんとその家の中に隠したのだ。

ロシア兵がもぬけの殻の菅原家に入って物色したというのに、この赤ちゃんはすやすやと寝息を立てて眠り続けていた。

一夜の逃避行から戻ってきた父と母はやすのりさんを抱きかかえ、無事に涙を流した。二度とこの子を離すまいと誓い、それからはどんな逃避行でも連れていき、動乱の中国から無事に水戸に帰ることができた。

彼は世界八十一か国を廻り、平和のためのコンサートを開催してきた。自身が水戸の出身であり、県内はもとより東日本大震災後の被災地を巡った。

誰も近づけない頃に、すぐに食料を持って三陸地域にも行き、歌を届けていた。奉天での苦しい生活と水戸で培った心から、世界の人々を歌で幸せにしたいという思いからだった。

南極でのコンサートでは猛吹雪の悪天候の中、菅原さんのコンサートとなると、急に晴れる。彼は強運の持ち主で、ファンからも「神の祝福を受けている」と崇められていた。

しかし不思議なもので、神に愛され過ぎた人はその命もまた神の元へ行くのが早いのだろうか。白血病にかかってしまった。

病後に復帰し、尾張旭スカイタワーでのコンサートがあった。

村上さんも当然その場に歌声を聞きに行った。

ファンは皆、病気から回復したとばかり思っていた。猛烈に声量を必要とする歌を何曲も披露してくれ、未来や将来の展望まで話され、前途洋々とした雰囲気であったから。

ただ、最後のお見送りの時に、なかなか菅原さんが出てこなかった。本当は楽屋で倒れる寸前であったのだという。

村上さんは、その日の菅原さんがどうも様子がおかしいということに気づいていた。

「体調も復活した」という割には本調子でないのは感じたし、何か彼に影が見えたのだ。

ステージに立った菅原さんの横に誰かが立っているような感覚もあった。

ちょうど彼は「父の言葉」という父へのメッセージを綴った歌のキャンペーン中でもあり、「生きる」という著書を出したばかりだった。

菅原さんの父は六十歳の若さで亡くなっている。もう随分前のことだ。

その日ばかりは彼の父が彼のそばに立っているような感覚が、村上さんにはあった。

村上さんは小さい頃に父を亡くし、父への思いは大きかった。社会のあらゆる場面でのピンチの時も、亡くなった父の霊が救ってくれた感覚が常にあった。

ステージの袖に、菅原さんを見守る人が見えた。しっかりとした体格、顔立ちで、容姿が彼によく似ていた。村上さんは直感で、

「亡くなったお父様が見に来られたんだな」

と感じたそうだ。

コンサートの後、村上さんたちファンが出て行く時の事だった。

「村上さーん! 本当に今までどうもありがとうございましたー!」

響き渡る声が、村上さんの胸に刺さった。

ハイヤーの窓から身を乗り出し、手を大きく振る菅原さんの姿だった。

今までこんな風に声を上げられたことがなかった。村上さんは本能的に思った。

(この人は、もしかしたらもう会えない人なんじゃなかろうか……)

村上さんは今まで流したことがない涙を流した。なぜ泣いたのかわからなかった。

「菅原さん! お父様も見ておいででしたよ! 今日は最高の復活コンサートでした!」

『お父様』という言葉を聞いて、菅原さんは深く笑顔でうなづいた。

「はい! また、会いに行きます!」

「私もです!」

そうやって男同士の長年の絆を呼び掛けあった。

それから一週間ほど経った日、町内の自治会の仕事で出かけようと、玄関先で革靴を履いて帽子を被ろうとしたときだった。

「村上さん、お世話になりました。今まで本当にありがとうございました」

と耳元で声が聞こえた。

「菅原さんですか」

彼の独特な透明感のある響く声はすぐにわかった。

それほど彼の声は、村上さんの思い出の中の道標だったのだ。

村上さんは保険会社で役員をやっていた。会社を挙げて彼の歌声をバックアップしていた。今はもう退職してしまったが、彼の歌を聞くと自分の若かりし頃、精力的に働いてたがむしゃらな時期を甘酸っぱく思い出すのだった。

だからいつまでも彼を応援していた。壮年期の絆は青年期のそれより強い。

「さようなら」

耳元の声は、二人の絆の終焉を知らせに来たようだった。明らかに菅原さんの声。

「菅原さん! どこに行くんですか!」

姿は見えず、「さようなら」だけが響いていた。村上さんは思った。

(もしかしたら、今、天国へ召されたのかもしれない)

その後だった。ファンクラブの友人から電話が入った。

「菅原さんがお亡くなりになりました……」

がっくりと膝を落とし、村上さんは男泣きに泣いた。

「さようなら! お疲れさまでした!」

天国に届くように空に向かって声を上げた。

空にあの菅原さんの笑顔が見えた。そしてその傍にはお父様が彼の肩を抱いて、肩を組みながら階段を登っていくように見えたそうだ。

その後も彼を偲んでファンクラブでカラオケルームに集まることがある。

その時に不思議なことがあるそうだ。菅原さんの歌を歌うと、九十点以上の点数が出るという。長年の女性ファンが「D51」を歌った時は初めて歌ったのに九十五点が出た。

それも彼の天国からの神業なのかもしれない。

茨城出身の歌手であったためか、持ち歌に「D51」がある。蒸気機関車のメーカー、日立製作所があるから彼に作ったという噂もある。D51は一九三六年から一九四四年まで製造された。彼が生まれた頃、最も製造された蒸気機関車である。

彼らのいた満州を走っていたのは『あじあ号』。

満鉄時代のイデオロギーは、今の日本の鉄道技術に生きている。

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