安物買いのはなし ココヨリジゴク(三重県) | コワイハナシ47

安物買いのはなし ココヨリジゴク(三重県)

老女がオーナーのマンション

三重県の某大学に現役入学を果たした菅野君は、安アパートから大学に通っていたのだが、ほんの一時期、高級とは言えないながらもこじんまりとした――かなり上のランクのマンション暮らしを経験するという幸運を得た。それも破格の安値で貸してもらって、である。

ところが彼は、その幸運をひと月足らずで投げ捨ててしまった。……なぜか?幸運と思ったものが、実はそうではなかったというのだ。それどころか……。

もとはといえば、彼の父親が持ってきてくれた話であった。父親の親戚筋――といっても、かなり遠縁であったそうだが――の老女が、あるマンションのオーナーなのだという。そのマンションは菅野君の通学コースの途中にあり、しかも彼さえよければ特別待遇で部屋を提供してもいいと言ってくれているのだとか。

菅野君にいやだという理由は、どこにもなかった。たしかに会ったこともない人物だったけれども――親戚のよしみで利便をはかってくれるという申し出を蹴るというのは、どうかしている人間だけがすることだ。それで菅野君は、安アパートを引き払って、そのマンションに移ることになった。

オーナーに対しては直接会って、お礼を述べるのが礼儀であろう。けれども仰々しいことの嫌いな人らしくて、あらたまってのお礼云々はいっさい結構――と向こうから言ってきたらしい。菅野君は、礼状を送るだけに、とどめておいたのだった。

マンションは、建てられてからそれほど年数が経っているわけでは、なかった。正面入口付近には小規模だが洒落た植え込みの、街路灯付きの小道もあり、内部の設備も上々。おまけに通学時間も大幅に短縮できて……安アパートに慣れていた菅野君にとっては、夢のようななりゆきである。

(人間、どこにチャンスや幸運が転がっているか――わからないものだなあ。昨日まで汚いシミの壁や、雨漏りの跡のあるアパートで暮らしていた自分がなあ……)

越してきて、しみじみと思う菅野君であった。

そうだ。チャンスや幸運は、人生という小道のいたるところに転がっている。そうして――――――落とし穴も。

マンションの菅野君の部屋は、四階にあった。彼の部屋は、四階の端にあるエレベーター側から見て三番目の部屋――403号室である。

エレベーターに一番近い部屋は、どうやら空室のようだったが、二番目……つまり彼の隣の部屋である402号室のドアには表札が入っていた。その名字は偶然かもしれないが、オーナーのそれと同じであった。

(まさかオーナーが、ここで暮らしている……んじゃないよな。関係者かな?)

マンションのオーナーが身内に部屋を貸す。よくある話だ。言ってみれば変則的だが菅野君自身も、そうであるし。いずれにせよ、引っ越しの挨拶はしておいたほうがいいと思って、ドアのチャイムを鳴らした菅野君であった。けれども応答は――ない。

(留守――か?)

日を改めれば、いいことだと思った。自分は当分の間、ここにいるのだから。

菅野君は、そう考えて部屋に戻り、荷物の片づけを再開した。引っ越し業者の置いていった荷物は数こそ少ないものの、やはり生活に必要なものいっさいを移し替えたわけだから、片づけには時間が、かかる。

(残りは明日だな)

とりあえず最低限のものを出した彼は、眠りについた。そうして彼が隣の部屋の異常に気がついたのは――早くも、その夜からであった。

壁越しに聞こえる何かを引っ掻くような音

翌朝の菅野君は、睡眠不足もいいところであった。

原因は――――――物音だ。

カリカリカリカリカリカリカリカリ……

あれはいったい、何の物音なのだろう?壁越しに――つまり402号室から、ほとんど夜通し、何かを引っ掻くような音が聞こえてきたのだった。

「防音は一級……じゃなかったのかヨ……」

赤い目をした菅野君は、つぶやいた。

そうなのだ。部屋と部屋とを隔てる防音材は完璧に近いはずであった。けれども事実、物音は伝わってきた。かすかな――かすかな音だ。しかし、神経に障る音なのであった。かすかだからこそ、よけいに、こたえるのかもしれなかった。

(何かが何かを引っ掻いていやがる。隣は猫でも飼っているのか?ペット厳禁なんだろ、ここは!)

……菅野君はその日、外出する際、再び隣の402号室のドアの前に立った。もちろん挨拶が目的ではあるが――場合によっては注意をうながしたいとも思っていた。もちろん、やんわりと、だ。こういった集合住宅のたぐいでは、人間関係は円滑にするよう心がけないと、ヤブをつついて蛇を出すことになりかねない。アパート暮らしで彼は処世術というものを学んでいた。

が。いくらチャイムを鳴らしても、誰も出てくる様子はないのだ。

念のためドアに耳を近づけても、何の気配も感じられない。誰もドアには近づいてはこないし、あの、執拗な引っ掻く音もしない……。

(また留守だってか?まさか居留守を使っているとも思えないけどな。旅行にでも出ているのか。飼い猫をなかに残したまま?まさか)

どうも――腑に落ちない。菅野君は、首を傾げながらもエレベーターに向かうしかなかった。

(ひょっとすると、あの音は機械的なもので、通風口か何かを通って聞こえたのかもしれない。一度、たしかめておく必要が、あるな……)

などと考えながら。

後から思えば、それは悠長な考え方であった。三日が過ぎ、一週間が過ぎ、半月が過ぎていった。

そうして二〇日が過ぎたあたりで、菅野君は爆発寸前になっていた。何に対して?

……物音だ。隣の部屋から夜通し聞こえてくる物音に対して、だ。

カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……

彼が大学から帰ってきて、しばらく経った頃合に、それは聞こえてくる。まるで、彼が部屋に戻るのを待っていたようなタイミングで、だ。

板か石か――とにかく堅いものを鋭利な何かで、引っ掻くか擦るかしているとしか思えない物音が、一晩中続く。

当初は物音は機械的な故障か何かで、ひょっとすると隣が原因ではないのでは?……などと思いもした菅野君であったが、すぐにその考えを訂正することになった。

物音は引っ掻き音だけに、とどまらなかったからだ。たとえば、

ずるっ……ズズズズ……ズズッ……ギィィィィ……ゴットン!

と、家具を引きずり動かしているようなものが、まじることもある。

シャッ……シャッ……シャッ……シャッ

と、カーテンがレールをすべるようなものも――くり返しくり返し。

「どういうつもりだ!」

菅野君が爆発しそうになったのも無理は、ない。百歩ゆずって、隣の人間が部屋の模様替えや何かの作業にとりつかれている人間……仮に、そうであるとしよう。世の中には、さまざまな偏執的な「趣味」の持ち主がいるものだから。

そうであっても、夜間――それも一晩中続けるというのは、どう考えても常軌を逸している。

(いったい、隣のヤツは何をしているんだ?昼間は何度訪問しても、いた試しがないし、夜は夜であの調子だ。どうやって暮らしているんだ?生計は?ヒマをもてあましてでもいるのか?こっちはヒマ人なんかじゃあない。大学もあればバイトも、ある。他人の都合というものを考えたことがないのか?それとも――それともこれは、何かの嫌がらせなのか。そうなのか!?)

………………

カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ……

菅野君は、あの一番神経にさわる引っ掻き音を聞きながら、血管の浮いた目でそう思った。

(オーナーに話すしか、ないかもしれない)

これは立派な住人間のトラブルだ。最終的には、そうするしかない。けれども菅野君は、特別待遇でここにきているのである。一ヵ月もしないうちに苦情を申したてたなら、オーナーはどう思うだろうか。まして隣の住人は、オーナーの関係者の可能性もある。機嫌を損ねられた場合、仲介をしてくれた父親にまで、とばっちりがいくかもしれない……。

すっかり不眠症にさせられた菅野君は、あれこれと考え事をしながらエレベーターに乗って階下に向かった。その日はゴミ出しだったのである。一階に着くと、そこで別の階の住人らしい男女に出会った。夫婦者らしい若い連中だ。といっても菅野君よりは、年上なのだが。初めて見る顔ぶれだったので、菅野君は簡単に挨拶をした。四階に先日越してきた菅野です――と。

すると………………彼らの顔色が、変わった。

とりわけ、菅野君がいい機会だと思って、隣から聞こえる物音のことを話し、いったいあそこにはどんな人間が住んでいるのかと質問をすると、彼らは不気味なものを見る目で菅野君を見た。そして、返ってきた答えはまったく意外としか言いようがないものであった。

「402号室……っていうことになりますよね。それ」

「ええ。そうなんですよ。そこから毎晩――」

「でも、そんなことってあるのかしら?」

「……は?」

「402号室は、もう、ずっと以前から空き部屋なんですよ。というよりも、四階全体が今まで入居者がいなかったんです。……いえ、以前は、いたらしいんですけどね。それが何といったらいいのか、ちょっと、ふつうじゃあない――」

そこまで女性が言ったとき、男性が無言で彼女を肘で軽くつついた。彼女は、ハッとして話を中断し、男性と顔を見合わせてから――適当な口実を口にして、その場を去ってしまった。後に残された菅野君は……困惑した。

(何だって?402号室には――誰もいないって?しかし現に、物音が聞こえてくるじゃないか?さまざまな家具をいじくったり。何よりも、あの神経に障る引っ掻く音!住人がいないとしたら……だとしたら。アレは誰が、やっているんだ?)

……夜がきた。菅野君は夕暮れからずっと、自分の部屋と隣とを隔てる壁をにらみつけていた。例の物音は、まだ聞こえない。しかし。

(わからない。あの人たちの言っていたことが事実なら、自分が今まで悩まされてきたアレは、いったい何なのだろう?わからない。わからない……)

と、そのとき、彼の耳が何かをとらえた。

……それは、例の耳にこびりついた物音では、なかった。

隣の部屋のドアが――あの呼びかけても呼びかけてもウンともスンとも言わなかったドアが――開く音であった。

がちゃり。キィィィィ……

(開いた。たしかに開いたぞ!)

菅野君は、とっさに立ちあがっていた。そして、そのまま廊下に出ようとして――いったん、引き返した。

(……必要かもしれないからな)

彼は、机のなかからペンライトを取り出すと再び廊下に向かった。廊下は各所に設けられた照明で、うす明るい。そのなかで、いつもとは違う部分があった。さっき耳にしたそのとおりに、402号室のドアが半分ほど開いているのである。

(誰かが開けて――ストッパーをかけた。管理人が外から開けたのでなければ、それは住人ということに、なる。いるはずのない住人だって……?馬鹿げてる。いるに決まってる。絶対に。すぐ、そこに)

「ココヨリジゴク」に埋め尽くされた部屋

菅野君は、少し迷った。このまま何もせずに自分の部屋に引き返すことだってできる。けれども、彼には疑問と怒りとが、あった。一ヵ月近くも、さんざんに悩まされた後で、前者を解決せずにすまし、後者をぶつけずにすますことは、できない相談であった。

結局、彼は402号室のドアの隙間に顔を入れ、次いで体を入れた……。

なかは――暗かった。実に暗かった。暗く……すえたカビとも埃ともつかない臭いが、こもっている。二四時間換気機能がマンションの売りの一つだというのに……。菅野君は彼の部屋のそれと、そう変わらない位置にある電気のスイッチを探りあてたが、あんのじょう明かりは灯らなかった。それで彼は、持参したペンライトを点けた。小型だが、光は心強い。だが。

(――――――な……っ!?)

菅野君は、口をあんぐりと開いた。

かたくブラインドを閉めきっている部屋のなかは……がらんどう、であった。

ない。何も、ない。家具らしいものは一つもなかった。いや、それ以外のものも、だ。床があり、壁があり、天井がある。ただ、それだけだ。ただ、それだけなのだった。

「だって……家具を引きずる音が。移動したり倒したりする音が――あんなに?」

かすれた声で、そうつぶやく菅野君は、何もない部屋に別のものを見てとった。それが――彼の体温を、急低下させた……。

ココヨリジゴク

ペンライトが浮かびあがらせた壁には、そう書かれていた。いや、書き殴られていた。

(ココヨリジゴク……だって?)

「ジゴク」とは、あの「地獄」のことだろうか。「ここより地獄」ということなのか?わからない。いったいどういう意味なのか。けれども菅野君を戦慄させたのは、その言葉でもなければ、わからない意味でもない。

壁面は、その文句で埋まっていた。大きなもの。小さなもの。ほとんど消えているもの。くっきりとしたもの。

ココヨリジゴクココヨリジゴクココヨリジゴクココヨリジゴク……

ペンライトの光が移動する。他の壁もそうだ。いや、天井すら埋めつくされている。

ココヨリジゴクココヨリジゴクココヨリジゴクココヨリジゴク……

ココヨリジゴクココヨリジゴクココヨリジゴクココヨリジゴク……

(何なんだ。何なんだ、これは。いったいぜんたい、ここは――何なんだ?)

無数に同じ文句が、連ねられていた。字の上にまた字が重ねられ、縦にも横にも斜めにも走っている。

一〇〇ではきかない。一〇〇〇でもきかない。一万?それとも一〇万?それは鉛筆で、ボールペンで、マジックで、正体不明の塗料で書かれていた。いや、彫られ、刻まれているものも多かった。何か鋭利な刃物まで使った痕跡があった。そして――。

(………………爪?)

一つの壁の傷に、何かが付着していた。人間の――爪のようであった。

(つまり、自分の爪も使ったのか?生爪が剝がれるまで――力をこめて?)

執拗。執念。いや、そんなものではない。そんなものでは、人間は、ここまでできはしない。そんな、なまやさしいものでは……ない。

ココヨリジゴク

菅野君は、喉のあたりに手をやっていた。空気が、よどんで重い。いや息苦しい。そして彼は、あれだけ神経を苛んだ引っ掻き音の正体を悟った……。

(まっ、まともじゃあ、ない。とても、まともとは。いや、それどころか――)

………………カリッ!

ごくっ、と手をやっていた喉を生暖かい液体が、流れ落ちていった。ペンライトを握った手が、汗ばんでいた。カタカタと光が上下左右に揺れる。

カリッ……カリッ……

(そん・なこ・とって)

そこに、誰か――――がいた

光が壁の一方をすうっと横切った。そこに、誰かが――――――いた。壁に向かってしゃがみ込んでいる。そうして――こちらに黒い背中を向けて……。けれども、誓ってもいい。この部屋に入ったときに、そこには誰もいなかったのだ。いや、ほんの一分前まで。いや、今の今まで。

なのに、いる。

なのに………………いる!?

出そうとした声は、声にならなかった。喉から息が、ひゅう、と漏れただけであった。

ガリッ!ガリッ!……カリカリカリ……カリカリカリカリカリカリカリカリ

あの「物音」が聞こえてきた。間断なく神経を苛む、あの音が。闇に、じわ……と滲んでいる黒い背中の、その向こうから。そうして。

(アア、今にもこちらに向き直りそうじゃあないか。アア、今にも!)

これまでは「物音」に責めたてられてきた菅野君であった。が、今はそれがとぎれることのほうが、ずっと怖じ気立つのだった。

その後にくるもののほうが、はるかに――――――怖い。

もしも、そうなったら――もしも?

黒い靄のような背中のその向こう。そこにあるものは、はたして正常な理性とやらで受け止められるしろものなのか?仮に受け止められないとしたら?受け止められない人間は………………どうなってしまうのか?

そして。

………………

がりりッ!!

みっしりとした闇の中、短い悲鳴があがり――四階の廊下には402号室から弾き出されたように見える若い男の姿があった。彼はエレベーターが目に入らないみたいに階段を駆けおりてゆく……。

菅野君のマンション暮らしは、あっけなく、そして唐突に終わりを告げた。彼は勝手知ったるもとの安アパートに戻り、マンションに残してきた荷物は父親立ち会いのもと、業者がすべて持ってきてくれた。

これも父親を介してだが、例の402号室に関しては、オーナーである老女から、いくらかは話を聞くことができたらしい。

老女はまず、父親に大変な部屋を世話してしまったことを詫びたそうだ。マンションの運用自体は専門の人間の助言を得ていて、その人間が、いつまでも四階全体をタブー視するのもどうかと考え、402号室以外なら問題ないはずと持ちかけたのだという。

「……あの物音は誰にでも聞こえるというものじゃ、なくてねえ。実際、ここのところ静かだったんだよ。以前にくらべれば、それはもう。それなのに」

そう言って老女は、溜め息をついたらしい。

402号室。あそこにはやはりオーナーの身内――孫の一人である青年が入居していた時期があったようだ。だが、青年はある事件をきっかけにいっさい、外出というものをしなくなったそうだ。そして、その後は?

……というところで菅野君は父親の話を遮ってしまった。彼は青年が人生をおかしくしたという「事件」も、その後、何があったかも、ことさらに聞きたくはなかった。

………………ココヨリジゴク。ここより地獄。

あの文字で埋めつくされた部屋を見てしまった彼には、あの文字にこめられた「何か」を考えるだけで苦痛なのであった。人間はいったい、何を体験し何を恨み呪えば、あのような真似ができるものか――それを考えるだけで、肌があわを吹く。そうして、さらに菅野君を震え上がらせるのは、自身がつくりあげた「地獄」のなかにいまだに棲んでいる「もの」が、あのマンションにはいる。たしかにいる、という事実なのだ……。

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