うつむいたまま、ぶつぶつとしゃべる男(兵庫県) | コワイハナシ47

うつむいたまま、ぶつぶつとしゃべる男(兵庫県)

シックハウス症候群。

近頃、あちこちで目にする機会も多いはずである。建造物――それはもちろん一般住宅も含まれるのだが――そのなかにいると、ただそれだけで健康がおかしくなってしまう……。

人体が化学物質に過敏に反応するらしいのだが、この場合、その化学物質は建材などに含まれているわけだ。症状としては、目がチカチカしたり、頭痛がしたり、ひどい発疹が出たりする。

あるいは――そう、耳鳴りも……。

引退した某女子大学教授の三田さんは、現在兵庫県下のS市で老後の生活というものを満喫している。奥さんに先立たれたものの、娘さん夫婦との折り合いのよい同居で、問題は何もなかった。

そんな彼の最近の日課は、近くの中心駅周辺のショッピング街を散策することであった。

買い物などは、めったにしない。駅周辺の緑の多い小道を歩いたり、設けられたベンチで鳥のさえずりに耳を傾けるだけで、第一線にいたときには気がつかなかった安らぎというものを実感できる。これが彼流の散策の醍醐味なのであった。

そんな――ある、日暮れどきのことである。

夏は、もう終わりだ。すでに残暑ともいえない。夕日も、どこか力がなかった。かっと照りつけてくるのではなく、木々の梢でさえぎられているとはいえ、どこか弱々しい。

三田さんはといえば、ベンチに腰掛けて、ぼうっと夕暮れの空を眺めていた。

揺れる枝葉の間を、ゆっくり――ゆっくりと雲が流れてゆく。のどかな眺めであった。とても、のどかな。

(いい季節に、なってきたなあ……)

三田さんは、満ち足りた思いで心のなかで、つぶやいた。

そんな満ち足りた思いが――一時の至福が――すぐ隣のベンチから聞こえてくる声で遮られたのだった。

「だからさ。ほら、知ってるだろ?アレだっていうんだよ……」

三田さんは自分のように暇をつぶしている老人が、誰かと会話をしているのかと思った。けれども、そうではなかった。

「だからさ。ほら、知ってるだろ?アレだっていうんだよ……」

まわりを見ても、他には誰もいない。そのあたりにはベンチは二脚だけで、そのうちの一つには三田さんが、そしてもう一方には一人の男が座っているだけなのだった。

隣のベンチに、一人きりで座っている男――頭を抱えるようにして下を向いているため人相は不明だが……四〇歳前後だろうか。いわゆる高齢者では絶対に、ありえない。服装は地味な背広姿で、どこででも見かける格好である。

その男が――うつむいたまま、何かぶつぶつと、しゃべっているのであった。三田さんに向かって語りかけているのではないことは、すぐにわかった。独り言だ。独り言を、蜂の羽音みたいにうなっている……。

(まだ若いのに――リストラでもされて、それでこんなところで不平をうなっているのだろうか?)

三田さんは、そう思った。リストラの直撃を受け、ハローワークに通うのが仕事のような人間も少なくないと聞く。あるいは、家にいれば邪魔者扱いされ、かといって余分な金もなく行き場もなく、しかたなく公園や図書館等で毎日、一定時間を消化している失業者もいるとか。

「耳元で、ぶんぶんぶんぶんぶんぶん……」

この男も、そんな一人なのかもしれない。

(それを考えれば、自分は選んだ職種はむろんのこと、時代もよかった――)

大過なく勤めをまっとうできた三田さんは、しみじみと自分の幸運を思う。

それだから彼は、耳障りなその男の独り言をも、聞き流せる――はずであった。

しかし……。

「だからさ。ほら、知ってるだろ?アレだっていうんだよ……シックハウス症候群。知ってるだろ?な、知ってるだろ?」

男の口から――といっても見えないのだが――いきなり場にそぐわない言葉が出てきた。

シックハウス症候群。冒頭で説明をしたアレである。知的な職業に就いていた三田さんは、当然何をさすのか知っていた。とは、いうものの。

(何だってまた、この男はいきなり、こんなことを言い出すんだろう……?)

「耳鳴りだよ。耳鳴り。耳鳴りが………………止まらないんだよ」

三田さんは、ちょっとギョッとした。頭のなかで考えた疑問に――もちろん偶然であろうが――男が答えた形になったからである。

そんな三田さんの動揺にかまわず、男はあたかも連れが側にいるかのごとく話し続けるのであった。それも、だ。その、いるはずのない連れが、カウンセラーか何かであるみたいに。

「……水道の、さ。蛇口の水が、さ。ポタポタポタポタ落ちる音が気になって――眠れなくなったのは、いつからだったかな。あれは耳障りなんだ。とても耳障りなんだ。そうだろう?気になって眠れやしない。ところが、だ。わざわざ見に行っても――なんべん行っても――水なんか落ちてやしない。流しは乾いていて、きれいなものなんだ。もちろん、蛇口はきっちり締まっている。いつも、締まっている。おかしいだろ。締まっているのをこの目で見ているのに――やっぱり聞こえてくるんだ。ポタポタポタポタ落ちる音が。いつも。いつまでも。………………いったい、何だっていうんだ」

うつむき、さらに頭を抱え込んでいるために、くぐもった声であった。くぐもっているのに、男の声は、妙にはっきりと聞こえてくるのであった。

「俺一人きりの家のなかで――やたらと響くんだ、アレが。耳のなかに、じんじん響いて――たまったもんじゃあ、ない。わかるだろ?俺の苦痛ってヤツが、さ。俺もようやく、こいつが蛇口のせいじゃなくて、耳のせいだってことがわかった。そうさ。耳鳴り――耳鳴りなんだ。耳鳴りってヤツさ。耳鳴りなんだよ」

三田さんは、べつだん男にも、その独り言にも関心があるわけではなかった。それなのに彼は、いつからか聞くともなしに、その言葉に耳を傾けていたのであった。もちろん、ベンチがすぐ隣だということもあるのだが。

「……耳鼻科に行くと、何とかって機械で調べてくれる。ああ、何とかなると思ったよ。何しろ、耳鼻科だからな。耳の専門家だから、な。

ところが、な~んにも、わかんないんだよ。な~んにも、さ。機械で診る限り、正常だって言いやがる。冗談じゃあ、ない。じゃあ、このじんじん響くのは、いったい何なんだ、え?医者は気やすめみたいな薬をくれたけどね。冗談じゃあ、ない。そんなもんで治るもんか。耳鳴りのほうは、最初の水が、ぽたぽたぽたぽた落ちるみたいなのから、だんだんハエが、ぶんぶん飛びまわるみたいなのに、なってくるしさ。それが夜昼、おかまいなしに、だ。眠れるとか眠れないの問題じゃあ、ないっ!

耳元で、ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん………………。

他人様の声も聞こえないくらいなんだっ。叫び出したいくらいなんだっ。なんとかしてくれっ。ええ、なんとかしてくれっ!

……そんなときだったよ。新聞か何かで、シックハウス症候群の記事を見つけたのは――」

「こいつは耳鳴りなんかじゃあ、ないんだ」

三田さんは、奇妙に納得をした。ばらばらだった話がつながってきたからだ。赤の他人の独り言に納得をするというのも、奇妙な話なのだが。

「建物のさ。建材のなかの化学物質でさ――耳鳴りなんかも起きるっていうじゃあ、ないか。これだと思ったよ。俺の耳鳴りは、こいつのせいだってね。それで俺は住居を変えたんだ。でも………………おさまらなかった。おさまらないんだ。何度も何度も住む場所を変えたっていうのに。甘かったよ――――――俺は」

男は、しきりにこめかみのあたりを揉むしぐさをするのだった。男の言う「耳鳴り」に襲われているのだろうか?

「ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんきやがるのさ。朝昼晩の区別なく、おいでになるのさ。やっぱり。どうやっても。俺は、もう、どうか、なりそうだった。耳鼻科だって、とっかえひっかえ何軒行ったかわかりゃしないぜ。ダメもとで、耳のなかに消毒液を流しこんだこともあったっけ。綿棒で――血が出るまで突いたりもしたなあ……」

(無茶なことを、する……)

三田さんは、他人事ながら顔をしかめた。その光景を想像して、胸もわるくなってきた。

「しまいには綿棒が、血で、真っ赤っかになったっけ。あはは……アハハ……くくく……まっかっか……アハハハハハハ」

しょせん――行きずりの他人でしかない男だ。たんにベンチが隣にあって、そこに座っていたというだけの。けれども、ぶつぶつとつぶやき続ける男の話は、しだいに常軌を逸し、生理的な嫌悪感をもたらしてきた。

(不快な人間と隣あわせてしまったものだ。もう引き上げたほうがいいかもしれない)

当初はリストラで行き場を失った気の毒な人かも――と同情も覚えた三田さんであったが、今は嫌悪感のほうが募ってゆく。

「ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん。あー、うるさくてしかたが、ない」

が、男のほうは当然のことながら、三田さんの嫌悪感にはおかまいなしに、しゃべり続けるのであった。

「でもな。あるときだ。俺にはわかったんだ。……というより、はっきりしたんだよ。こいつは耳鳴りなんかじゃあ、ない……てね。そうとも。こいつは耳鳴りなんかじゃあ、ないんだ。――え?なぜかって?聞こえたんだよ。聞こえたんだとも。………………人の声が!」

(――いったい、何を言ってるんだ?人の声?耳鳴りに悩まされていたんじゃなかったのか?その苦痛を、えんえんと、うなっていたんじゃ、なかったのか?)

男の、こめかみを揉むしぐさが激しくなった。三田さんは、その様子に嫌悪感にくわえて、ある種の危なさをも感じた。それで彼は、ベンチから腰を浮かせかけた。

「つまり……俺の頭のなかで……そいつはずっと……ずっとずっとずっと……しゃべっていたわけだ……しゃべり続けていたわけだ……ああ聞こえているとも……今も聞こえているとも……同じ言葉なんだ……同じ言葉を……くり返しくり返し……」

くるり

(――――――!!)

男は、いきなり三田さんのほうを向いた。腰を浮かせかけていた三田さんは――威圧されてしまった。

思っていたよりも――そして独り言の内容とは、かけはなれた――端整な顔立ちの中年男性であった。

けれども、その目は、端整でも何でもないのだった。

どろんと曇り……光沢というものを失った……遠くを見つめている目。そうだ。とてつもなく遠く――遠くにある「もの」以外、何も視界に入っていない目……。

(死んでいる目だ。魚の目だ。死んだ魚の目。死んで、腐って、グヅグヅになった汁の上に浮かんでいる――魚の目……)

残照の最後の輝きが、ベンチのところに届いた。男の目が血の色に染まる。

男は、それがあたりまえであるかのように――三田さんに、静かな声でたずねかけた。

穏やかな表情のなか、死んでいる目がぎょろり、と動いて――。

「なあ、あんた。あんたも、聞きたいかい?………………こいつが何て言っているか?」

……三田さんは、日課を一部、変更した。それから時折、耳のなかに、かすかに違和感を覚えることがあるが、高齢のためだと自分に言い聞かせている。

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