たたり地蔵(大阪市) | コワイハナシ47

たたり地蔵(大阪市)

大阪市内の川沿いにある地蔵堂でこんな話を聞いた。

詳しい場所は伏せてほしいと言われているので、明記はしない。

その地蔵堂には賽銭箱もなく、お堂には二つの南京錠が取り付けられている。

由来書きもないのに、何故か近隣に住む人はその地蔵を拝むと「祟る」と言われていることを知っている。

私も大阪のお地蔵さんを調べている郷土史家の方から「あそこの地蔵さんは祟るからな、拝んだらあかんねんで」と話を聞いていた。

気になったので、その地蔵堂を管理している町内会の方に聞いたところ、実はもともと「たたり地蔵」ではなく「たたみ地蔵」と呼ばれていたことを知った。

いつ、どうして「たたみ」が「たたり」になったのかは不明だそうだが、たたみ地蔵と呼ばれるようになった理由は教えてくれた。

「ここでペスト(黒死病)で亡くなった人が使ってた畳を積み上げて、焼いていたんです。その横にね、慰霊をかねてこの地蔵堂を建てたんですよ。

ペストにかかった人の吐瀉物や血やらが畳にまで染み透って、真っ黒になったらしいですね。

明治期のペスト大流行で、患者数が一番多かったんが、大阪なんですよ。聞いた話やし、昔の記録やから間違ってるかも知れんけどね、地蔵の建立には当時の遺族や医療関係者も関わったらしいです。

で、知ってはるやろうけど、明治政府は青山胤通北里柴三郎の二名をペストが流行し出した時に、海外に派遣して調査と原因究明と、日本への感染拡大防止を命じたんです。

でもペストは結局、日本に入ってきた上に感染が大きく広がってしまってね、国民総動員で疫病と戦うことになったわけです。

知ってます?最初に国内外の伝染病の研究所に、個人で投資したんは福澤諭吉でね、北里柴三郎に資産を随分とつぎ込んだそうですよ。『北里を殺してはならぬ』と言って感染症は研究者の感染防止策も重要やと言い張ったらしいですね。流石、一万円札の人ですね。

そのかいがあったかどうかは不明ですけど、大阪は感染者数も多かったからか、ペストは鼠と飛沫感染やというのが割と早いこと、みんなの共通認識になったみたいです。

だから集めてね、感染を広げないように、畳や遺品に触れんようにと伝えてここで燃やしてたんで「たたみ地蔵」――それを誰かが「たたり地蔵」と聞き違えはったんと違うかな。

畳は積みあがってね、とんど焼きの塔みたいになっとったそうですよ。当時は、周りに高い建物もないから、燃える様子は遠くから見えたやろし、目立ったんと違うかなあ。

その横に名もないお地蔵さんがいたら、まあ誰かが名付けなくっても「たたみ地蔵」と呼ばれて不思議やないでしょう。

でも、このお地蔵さん拝むと良くないことがあるっていうのはホンマでねえ、私もよう手を合わせません。町内で、冗談で手を合わせたり拝んだりした人がおりましてね、やっぱりちょっと良くないことが起きたんですよ。

どういうことかっていうと、人によって色々とあって言いにくいんやけど……。まあ、わたし自身だけの話をしますとね、犬の散歩で歩いてたら、なんもない場所でズザーって転んでね。

もう、痛くて痛くって、家に帰ってズボンを捲ってみたら内出血で足が黒くなっててビックリしまして。そりゃペストになったような黒い色とは違うけれど、これは、と怖くなってしまいまして。

本当はこういうご時世になったから、伝染病の記憶や記録ということで、一般の人にも知って貰った方がいいから案内板でも作ろうかって話も出てるんですけど、どうもね、拝む人が出てきたら困るなっていう気持ちもありまして。

だから、感染症関係の記録として、こういうお堂がありますよということは書いていただいて構いませんが、場所とか細かいことはね、特定されないように変えてください」

固く閉じられたお堂は、今日も人の行きかう路地の途中に佇んでいる。

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