犬鳴山(大阪府) | コワイハナシ47

犬鳴山(大阪府)

犬鳴山はおよそ千三百年以上前に、役の行者によって開山された修行場で、地名の由来となった悲しい伝説が残っている。

天徳元年(九五七年)紀州の猟師が山中の滝の近くで立派な鹿を目にし、射ようとしたのだが、連れていた愛犬がうるさく吠えたてたので逃げてしまった。

獲物を取り逃がした猟師は、犬が注意しても全く吠え止まないので、腰に下げていた匕首を抜いた。耳障りなほど煩く吠え続ける犬は、猟師が脅してもいうことを全く聞かず、これでは狩りが出来そうにないのでカッとして首を撥ねた。

赤い血しぶきが散り、犬の首はそのまま舞い上がり、猟師を背後から呑もうと狙っていた大蛇に噛みつき、蛇とともに息絶えた。

愛犬が吠えたのは、主人を救おうとしたためだったのだと知った猟師は、悔いて修行者となり、愛犬を供養し塚を山中に建てた。

この時より宇多帝がこの地の呼び名を犬鳴山と定めたという。

悲しい犬鳴山伝説にちなみ、大阪府出身の漫画家ユニット・ゆでたまごがデザインした、ご当地、泉佐野市のゆるキャラであるイヌナキンもいる。

もしかすると日本全国でゆるキャラの居ない地は、殆ど無いのかも知れない。

そんな犬鳴山は大小合わせて四十八の滝があり、滝に打たれる修験場として知られていて、今も滝行を行なっている人が多い。

これは病院に勤務している永井さんから聞いた話。

永井さんは、女性でも修行が可能と聞き、犬鳴山にやってきた。

人間関係のいざこざに疲れ、修験道についての知識はなにも無かったけれど一度滝に打たれてみれば、自分の中に溜まった鬱憤も流されて、気分が少しは軽くなるんじゃないだろうかと思って、インターネットで一日修行体験を申し込んだのだ。

多少は登山経験もあったし、体力に自信のあった永井さん。修行体験なんて軽いと思っていたらしいが、すぐにそれは大きな間違いだと気づかされたそうだ。

その日、体験修行に集まった女性は六名ほど、中にはどう見ても七十を超えているように見える参加者の姿もあり、ちろちろっと水の出る滝に当たってお経を唱えて終わりだろうと永井さんは思っていた。

修行の流れは、最初に宝瀧寺の本堂でご本尊さまに礼拝し、勢いよく燃える護摩の炎の前で勤行を行なった。そして皆が白い修行装束に着替えると、寺の外に案内され、少し山道を歩くと、そこにはつるんとした岩の壁の真ん中に、細い鎖が一本下がっていた。

先頭の修験者はするすると簡単そうに鎖をつたって、あっという間に上の方に行ってしまった。付いて来て下さいと言われ、次々と皆が鎖を難なく登っていったのだけれど、永井さんはどう頑張っても少しずつしか進めなかった。

整備された登山道ではなく、鎖をしっかり持って手繰り寄せながらよじ登るしかない岩場だ。必死に落ちないようにして強く鎖を握っていた永井さんの両手には、すぐに血豆が幾つも出来てしまった。鎖を必死の思いでよじ登り、これで終わりかと思いきや、まだ行程の入り口に過ぎないと言われた。そこからは数センチ幅の崖っぷちを、岩に指で張り付くように摑みながら進んだ。

落ち葉で滑りやすい場所も多く、風も吹きつけていた。下を見ると目もくらむような高さだ。ちょっとでも手を滑らせたら谷底まで落ちて死んでしまうに違いない。

参加したことを後悔しながらも、今までの自分の中に溜まった嫌なものを払拭するために来たんだから、もう少しだけ頑張ろうと、なるべく下を見ないようにしながら、そろそろと長い時間をかけて進むと、急に視界の開けた場所に出た。

その場で修験者の人が、修行体験者を前にこう言った。

「ここで捨身の行を行ないます。命綱一本だけで体を乗り出し、断崖絶壁を覗き見るという修行です」

高所恐怖症の永井さんは、ここまで来るだけでも大変だったので、これには参加するかどうかかなり迷ってしまった。案内役の先達と呼ばれるベテラン修験者に、体に命綱を巻いてもらうところまでは挑戦出来たのだけれど、崖の近くに寄ると足がすくみ涙が出てしまったので、他の参加者を見るだけにしようと決めた。

不参加になってしまったことで、もやもやする気持ちがあったけれど、その分滝行を頑張ろうと決め、岩場を伝いながら山道を滝に向かって降りた。

滝に着くと、先達が鎖をしっかりとつかむように、落石があれば落石と叫ぶので、避けるように注意して欲しいという注意事項を伝えられた。

見ているだけなら、白い無数の生糸が垂れているように見える、涼し気で美しい滝の流れは、その中に身を浸してみると、永井さんが最初感じたのは痛みだった。

鎖を必死に持っていないと押し流されてしまいそうな強さの水圧の痛さと寒さに、身を震わせながら鎖を持って、永井さんはひたすら南無と唱え続けた。

滝からは水だけでなく、小石や枝も落ちてくる。目も開けられず唇も震え、殆ど声も出せない。もう限界だと根を上げそうになった時に、もう大丈夫よ、と先達に言われ、滝から出て体を拭いた。

永井さんが空を見上げると青く、鳶が円をかくように飛んでいた。体温が上昇してきたのか、体がぽかぽかと温かくなり、山の風が心地よい。たった一日の修行体験で、悩みは整理出来たかというとそうでは無かったが、職場のことを思うだけで嫌な気分になっていた永井さん。今は職場を思っても気持ちが以前ほどは憂鬱になっていないことに気が付いた。

滝の流れが少しだけ悩みを押し流してくれたからだろうかと考えながら、着替えを終え、停めてある車に乗った。

エンジンをかけるために鍵を差し込もうとして、手を滑らせて足元に鍵を落としてしまった。

屈んで鍵を拾い上げようとすると、何か柔らかくて温かいものが鍵と手の間にあった。

ん?と思って永井さんが見ると、そこには何もない。でも、鍵を拾おうとすると、また何かに触れる。

見えない何かがいると気が付いた永井さん。

手探りでその見えない何かを探すと、指先をぺろっと舐める気配があった。温かい小さな舌の気配だった。とっさに手を引っ込めると、それは、くぅんっと鳴いた。

もしかしたらと永井さんは思い、飼っていた愛犬の名前、カイと呼んだ。

カイは永井さん一家がとてもかわいがっていた愛犬で、三年前の夏に事故で亡くなっていた。永井さんのここ最近の憂鬱も、原因の一つは、どんなに疲れて帰って来ても、いつも永井さんの足音を聞くと尾を千切れんばかりに振って出迎えてくれるカイが、もう居なくなってしまったことだった。

カイ?もう一度永井さんは名前を呼んでみた。すると「ワン」と返事がかえってきた。

永井さんは車の中で、溢れてくる涙を止めることが出来なかった。そして何度も泣きながら愛犬の名を呼び続けた。

返事があったのは一度きりだったそうだけれど、永井さんは確かにカイの存在を感じていたそうだ。

何度も愛犬の名を呼びながら運転席で泣きじゃくっていると、スマートフォンがブーブーと振動して着信を告げた。家からの電話だったので、泣き声をこらえながら永井さんは出た。

電話をしてきたのは永井さんの母だった。

どうしたの、そんな泣き声で。なんかあったの?

母の声を聞き、永井さんは愛犬カイがいるように感じた不思議な体験を伝えた。

すると母は驚きの声を上げた。

あのね、カイがね、電話を引っ張って枕元まで持ってくる夢を見てね、朝起きたら本当に電話が枕の近くにあったの。

前の夜に寝室じゃなくって、座敷に置いてあった充電器に繋いでた筈なのに、これはおかしい。カイが何か言いたいんじゃないかと思って、あんたに電話したのよ。

今あんたどこにいるの?こんな朝早くからなにしに行ってるの?

永井さんは今、修行体験のために犬鳴山にいると伝え、そのきっかけが職場の悩みだということも母に話した。話しているうちに再び感情と涙が溢れ出て、今まで堰き止めていたものが次から次へと出てくるように感じた。

永井さんは話し終えると、ふうっと体が軽くなっていることに気が付いた。手をぎゅっと握るだけで、力が湧いてくる。夏の朝のような清々しい気持ちで、明日から頑張れるという力で体が満ちているのが自分でも分かった。

永井さんが心の中でカイにお礼を伝えると、指先にふわっと柔らかい毛が当たったように感じた。

それはカイの尾が触れた時の感触にとても似ていたらしい。

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