千人つか(大阪府) | コワイハナシ47

千人つか(大阪府)

戦時中、大阪を狙った大空襲は八度繰り返された。

中でも昭和二十年六月七日の空襲に参加した米軍の戦闘機は四百機を超え、投下された爆弾・焼夷弾は二千五百九十四トンにのぼったともされる。

これはその空襲で生き残ったというKさんから聞いた話。

「朝から始まった空襲で、民家や工場が燃え盛り、多くの人が我さきにと逃げ惑っていました。私は小さかったので、家で姉と二人で留守番していたのですが、うーっと警報が鳴りまして二人で家から飛び出して一緒に城北公園に逃げたんです。

隣の家は焼夷弾が着弾したようで、もうもうと火を上げて燃えてました。

布で顔を押さえながら、姉の引いてくれる手だけを頼りに、進んだのを覚えています。公園は川が近かったですし、風向きのせいか煙は少なかった。

ここに逃げれば大丈夫だろうかと姉の顔を確かめてから辺りを見回してみると、近くに避難していた人の殆どが四国から学徒動員されて、近くの繊維工場で働いていた女学生でした。当時は消火活動もろくに出来ず、火事が燃え広がっていてもその場で立ち尽くす人もいて、公園の方もしばらくすると黒い煙が靡いてきました。

しばらくするとブーンとプロペラが回る音と、パパパパパと銃撃の音が近づいて来ました。城北公園に避難した人たちを狙った銃撃は、大阪の大空襲の中でも被害状況が酷かったんです。あまり身を隠す場所がない公園の中で、機銃掃射で狙い撃ちされたんです。

低空飛行をしながら、何度も何度も戦闘機がやって来ました。私は姉の手をきつく握りながら、身を出来るだけ低く下げてじっとしていました。

叢の中で息を潜めて隠れていると、ブーンとまた戦闘機がやって来て、姉が撃たれたんです。あと三十センチほど横に弾が逸れていたら、撃たれたのはきっと私だったと思います。その場で、小さくお母さんと呟きながら、手を繋いでた姉の手がどんどん冷たくなっていって、私は声をかけたかったのですが、まだ戦闘機が飛んで来ていたんで、最後に言葉を伝えることが出来なかったんです。

うっと声をあげて人が側で倒れたり、木の陰に入ろうと立ち上がった人が撃たれる姿も見ました。

あの時の飛行機のモーター音と、ピシピシと地面に小石を蹴り上げるようにして当たる弾の音を、今まで何度夢に見たか分かりません。顔が半分無い人、子供を抱いたまま仰向けになっている人、手や足が吹き飛ばされた人、血を口から吹きながら助けてと何度も言っている人がいて、あの時は地獄を見たと思ったんです。

草陰に隠れていたわずかな人たちが生き残りまして、姉は私の手首をぐっと摑んだまま亡くなっていました。

夕方近くになって、近くで生き残った大人が、私の手を引いて家まで送ってくれたんですが、家は既に焼けていました。

その日の空襲で、千人以上の人が城北公園で亡くなりまして、その時の遺体を集めて公園の北側の淀川河川敷でガソリンをかけて火葬したんです。

遺骨はそのまま地中に埋めまして、長いことそのままだったんですが、戦後になって、その上に慰霊のために有志の方の手引きによって〝千人つか〟を建てました。

戦時中の大阪は、空襲と火事に追い立てられた日々のことしか殆ど覚えてないんです。

親も戦争で亡くしまして、親戚の工場にやっかいになってたんですが、仕事がきつくて、何度布団の中で声を殺して泣いたか。

でも辛い中でも辛抱出来た理由はね、姉がじっと摑んでいた手首にね、時々痣のように姉の顔が浮き出て見えることがあったからです。

手首がぎゅっと摑まれたみたいな感触があって、じっと見ていると姉の顔が、浮き出てきて笑うんです。頑張れよとでも励ますように、目を細めて私を見て笑ってくれたんです。

子供の時分しか見えなかったけれどね、それだけでも、どれだけ励まされたか。

薄く腕に出て来た姉の顔に、そうや負けん!かならずやったるぞ!と誓ってね、歯を食いしばって、私は生きて大人になれたんです。

あの日の空襲ですが、姉以外の大勢の方も亡くなりました。

若い女性が多くおって、さぞや無念やったと思います。

戦後もう七十年以上経ちますが、幽霊話はよく聞きます。私も姉が手首に現れるのを見てきたわけなので否定はしません。

ただ見た人は、怖いというより、悲しいと感じる人が多いようですね。

〝千人つか〟に手を合わせる若い人をこないだも見かけたんで声かけたら、スケートボードで夜近くで遊んでいたら、綺麗な女の子が千人つかの石を抱きしめて泣いていて、気が付いたら自分もたまらなく悲しくなって泣いてしまっていた。

それ以来ここに来て時々手を合わせていると聞きました。

他にもね、散歩していたら、子供の姿の防空頭巾をかぶった幽霊が、後をずっとついて来て最後にばいばいと小さな手を振って消えたとか。

みんな寂しいんだと思います。だから、なるべく私も行くようにしてるんです。

私も死んだらあの辺で化けて出そうな気がするんで、その時は線香の一本でも上げてください」

この話を聞いて、私も千人つかに行ってみた。すると手を合わせていたカップルがいたので、声をかけてみた。

二人が言うには、夏の夜に花火をしていたら、ビシッと鞭がしなるような音が聞こえ、花火を持っていた右手に鋭い痛みが走った。風もないのに何故か、木の枝がざわざわと激しく揺れていて、ここにいちゃいけないと感じて走って逃げた。

でも、何か変につかの方が気になり戻ってみて、空襲被害の碑文があったので読んだ。それ以来なんとなしに通りかかるとここで手を合わせているということだった。

大阪市の旭区のサイトによると「当時は戦争に関しての報道は、写真はおろか空襲に関しての現状の様子等はきびしく管制されており、只人々の個々の記憶によるものだけである」と記されていたので、当時の犠牲者が何かを伝えたくて、時折現れているのかも知れないと思う。

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