ミヤザキさんの姉(福岡県) | コワイハナシ47

ミヤザキさんの姉(福岡県)

第二次大戦後、日本各地に連合国軍が進駐してきた。その数は二十数万人と言われ、福岡県にも五千人余りの進駐軍が入った。一九五二年に発効したサンフランシスコ講和条約によって日本が主権を取り戻すと、進駐軍は撤収した。

克彦さんが生まれ育ったのは、祖母が進駐軍の大尉から買い取ったという豪壮な屋敷だった。祖母は福岡県北部を拠点とする実業家の一族に生まれ、祖母自身も運送業を中心としたグループ企業の経営者であった。祖父は戦死しており、戸主である祖母の威風は一時は大したもので、実際にとても裕福でもあったから、慕う者も多かった。

ミヤザキさんもその一人だ。戦前であれば書生や食客と呼ばれたような、成績優秀な学生で、祖母を崇拝しており、それがために祖母の知人の紹介を得て家に来た。祖母は学費を援助して食事付きで家に居候させる代わりに、彼に身の回りの世話をさせていた。

一家は大所帯で、克彦さんの家族の他に叔父夫婦と女中が五、六人も住んでいたので、一人増えたからといってどうということもなかった。

ミヤザキさんが家に来て三年ほど経った一九六六年の小晦日(一二月三〇日)の昼、彼は広島の実家で正月を迎えるため、家族全員に挨拶をして出掛けていった。

克彦さんは当時四つ。別れが辛くて泣きだすと、ミヤザキさんは「二週間でこっちに帰ってくるんじゃけぇ、泣かんでええのに」と柔らかな広島弁で慰めてくれた。

しかし予定より早い一月六日の夕方、ミヤザキさんは前触れもなく家に現れた。

廊下を歩いているところを祖母が見かけて、驚いて声を掛けた。だが、振り向きもせずに黙って祖母の書斎の方へ立ち去ろうとする。慌てて祖母は追い駆けたが、書斎に行ってみると、もう姿を消していた。家人で手分けして他の部屋を探しても見つからず、何か普通ではないことが起きたようだと皆が思いはじめたそのとき、電話のベルが鳴った。

そこで克彦さんの父が受話器を取ったのだが、

「私はミヤザキの姉ですが、たった今、弟が病院で息を引き取りました」

と、若い女が一方的に告げたかと思うと通話を切った。

これを父から聞いた祖母は急いでミヤザキさんの実家に電話を掛けた。

すると、本当にミヤザキさんが今しがた亡くなったことがわかった。交通事故による急な死で、まだ誰にも知らせていないのに、と、先方が驚いたので、彼の姉から連絡を貰ったのだと祖母が話したところ、「あれは一人っ子で、姉などはおりません」と言われた。

──克彦さんの祖母は、「大正元年に生まれてから唯一体験した不思議な出来事だ」として、度々この話を語っていたそうだ。

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