大阪市西成区と聞くと、飛田新地とあいりん地区があることから、売春や貧困といった社会問題を想起する人がいることと思うが、実際には区の中心部である天下茶屋駅の周囲には静かな住宅地が広がっており、ここに賢さんは最近まで一〇年ばかり住んでいた。
一帯にはレトロな建物も多く保存されていて、賢さんは休日のたびに散歩して懐古趣味を満足させていた。今から七、八年前になるが、そのときも自宅がある天下茶屋から出発して気の向くままに歩いた。季節は春先、よく晴れた散歩日和の黄昏どきだった。
そろそろ飛田新地に近いかな……と思ったところで、ふいに、酷く寂れた一画に足を踏み入れた。廃屋が目立つ──そのうちの一軒に賢さんは目を留めた。
角地に建っており、どうやら元は昔の遊郭に多かった「カフェー建築」のようだった。遊郭を廃業後に住宅に改装したような痕跡が見られるが、二階の窓にベニヤ板が打ちつけられており、打ち棄てられた建物に特有の虚無感が漂っている。
周りを歩きながら観察すると、壁の一角に縦一七〇センチ横七〇センチぐらいの穴が穿たれ、中にコンクリートの階段が設けられていることを発見した。
それを見て好奇心に駆られた賢さんは、長身を屈めて穴に潜って階段を上った。
上り切ると小さな踊り場があり、いっぺんに一人しか通れない狭い外通路がそこから長く続いていた。通路の右側は柵にくっつきそうに建っている隣の建物の壁で視界を遮られている。わずかな隙間から差し込む明かりを頼りに通路の左側を眺めると、部屋が六室ほど並んでいた。ほとんどの部屋のドアや窓が板で塞がれていたが、驚いたことに、奥から二番目の一室だけは誰か住んでいるようで、ドアに耳を近づけると生活音がした。
他人の生活を面白半分に覗き見しては申し訳ないと思い、通路を戻りはじめたとき、どこかから赤ん坊の泣き声とあやすような女の声が聞こえてきた。
生活音がする部屋からではない。しかし非常に近いところに赤ん坊と女がいる。
赤ん坊はますます盛んに泣き、母親であろう女も一所懸命にあやしている。
気にしながら通路を引き返していくと、声がどんどん近づいてきて、ついに、踊り場の傍のベニヤ板を打ち付けられたドアの中から聞こえることに気がついた。
信じ難い思いでベニヤ板に耳をつけてみたら、もう間違いなかった!ドアのすぐ後ろで赤ん坊が泣いている。
「よちよち、ええ子や、ええ子や……」と言う女の声が耳もとで聞こえた。
──あかんあかんあかん!すぐ出なきゃ!
賢さんは肝を潰して外へ飛び出し、もう二度とその建物の方へは足を向けなかった。