狐憑き 豊川稲荷(愛知県豊橋市) | コワイハナシ47

狐憑き 豊川稲荷(愛知県豊橋市)

愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院《豊川稲荷》は、正しくは「円福山 豊川閣 妙嚴寺」と称する仏教寺院である。「稲荷」とは呼ばれているものの、お狐さまを祀った稲荷神社ではない。しかし狐との縁は深く、開祖・寒巖義尹禅師が、今から七〇〇余年前に救国の志を持って二度も宋国(中国)へ渡り、二度目の帰航で白狐にまたがった荼枳尼天──豊川稲荷では豐川吒枳尼眞天と呼んで敬している──の祝福を受けたことが始まりとされる。

荼枳尼天の起源はインドのダーキニーで、空を飛び人肉を食べる魔女であり、また、ヒンズー教ではカーリーの眷属で鬼神・夜叉女だとされ、これも殺した敵の肉を喰らう。

しかし日本では、神道における稲荷信仰と習合して、稲束を荷って宝珠を捧げ、白狐に乗った天女になった。豊川稲荷も荼枳尼天を祀るほか、《霊狐塚》といって約一〇〇〇体もの狐像を祀るご参拝所を有している。

愛知県豊橋市にあった吉村諭司さんの生家では、代々、荼枳尼天を祀り、豊川稲荷を信奉していた。仏教としては曹洞宗の宗徒であり、明治時代に紡績業で財を成して建てた豪壮なお屋敷には、立派な仏壇があった。

けれども時代は移ろい、貯えが尽き、家業も廃して久しくなった昭和五一年、諭司さんの祖父の方針で、本社を三重県の伊勢神宮に置き天照大神を主祭神とする、伊勢系列の某神社をも信奉することに決め、初めて神棚を設けた。

仏間に神棚がしつらえられると、家族が集められ、祖父が招いた神主が、これからは神棚を先に拝み、次に仏壇に向かって手を合わせるようにと全員に言い渡した。

その頃、諭司さんは九歳で、三つになる弟と並んで正座させられ、祖父や神主の話を聞くふりをしていたが、ちんぷんかんぷんで早く終わらないかと思うばかりだった。

弟の方は途中から船を漕ぎだし、母が慌てて部屋の外に連れ出した。

祖父は決して豐川吒枳尼眞天さまを見限って天照皇大神さまに乗り換えたわけではなく、これまでお仏壇で祀ってきたご先祖さまに、今後は神さまも加勢していただいて、家の復興を願おうというコンセプトだったようだ。

しかし何かが間違っていたのだろうか──神棚をしつらえたその夜から、弟が奇声を発して暴れたかと思うと昏々と眠り、そうかと思うと獣のように四つ足で縁側を駆け回るという怪しい症状を呈した。

諭司さんは早々に布団に追いやられ、翌朝、弟の姿を探そうとすると、「あれは狐憑きだから、狐を落とすまで会ってはいけない」と言われた。そこで、どこにいるのかだけでも知りたいと母に懇願したところ、神棚と仏壇がある部屋に閉じこめたと教えられた。

「決して覗き見してはあかんがね。狐がおみゃーにもうつったらあかんで」

こんなふうに脅されて遠ざけられた。

約一ヶ月間、神棚と仏壇の間に弟は寝かせられていた。祖母と母が、アルマイトのたらいで沐浴させたり、食事を運んだりするようすを、諭司さんは傍観していた。

手伝わせてほしかったが、件の部屋に近づくことすら禁じられ、弟が触ったものに触れるのもいけないと言われては、あきらめるしかなかった。

その間に都合五、六回も、三重県からわざわざ神主が足を運んでは、弟が寝ているそばでご祈祷をあげた。そのようすだけでも見たくてたまらなかったが、障子を開こうとしても開かなかった。

どの障子も一ミリも動かすことが出来なかったのに、弟が全快したと知らされて駆けつけたときは、易々と開けることが出来た。

引手に手をかけ、桟を力いっぱい引っ張っても、あの部屋のどの障子もビクとも動かなかったので、神主が結界を張ったのかもしれないと、諭司さんは今でも思っている。

閉じこめられていた間のことを、彼の弟はまったく憶えていなかった。

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