鶏(大分県) | コワイハナシ47

鶏(大分県)

大分県の南東端にある佐伯市。

海と山を擁しており、美しいリアス式海岸は日豊国定公園に指定された。

現在は県外からの移住者を募っており、移住サポートも行っている。

江口さんはこの佐伯市に移り住んだ男性だ。

二十代前半の頃、北陸地方で会社員をしていたのだが、ある日突然「こんな生活で良いのか」と疑問を抱いてしまった。

太平洋側がよいと、幾つか選んだ後、直感で決めたのが佐伯市だった。

住まいは山沿いの地域にある木造一軒家である。

前に住んでいた人間が老衰で亡くなってから空き家となっており、とても安く借りられた。とはいえ、コンビニもスーパーも近くになく、車がないと生活は出来ない。

他にあるのは隣家が一軒だけ。しかもこちらの建屋と身を寄せ合うように密接した状態で建てられている。お互い木造のせいか、あちらの生活音も伝わってくるし、相手の出入りも分かる。と言うことは自分の行動も相手には伝わっているはずだと、それが何となく気になったが、それでも新天地だと、喜びの方が大きかった。

とはいえ、移り住んでから、幾つか後悔もあった。

仕事のことや金銭面。知り合いすらいない、慣れない土地。言葉は分かるけれども、時折、年配の人と話すと意味不明な方言も飛び出してくる。

北陸へ帰ろうかなと頭に浮かんだ頃、例の隣家に住むお婆さんに助けられた。

お婆さんと行っても、そこまで老け込んだ印象はない。紙は黒く、肌つやも良いし、背中もしゃんと伸びている。服のセンスも程よく若い。

年齢を聞くと六十をとうに過ぎているらしい。

名字は朝来野(あさくの)といい、夫に先立たれて以来、ひとり暮らしの人物だった。

「よう知らんとこで慣れんやろうが、何とかなるもんよ。私もそうやったもん」

朝来野さんはそう言っては、様々な形で気に掛けてくれる。

最初こそ、お節介だと感じた。しかし、彼女の人柄だろうか。自然に打ち解けていく。

(こういう人がいるのだ。もう少し佐伯市に住み続けよう)

心を新たにするきっかけになり、彼はこの生活を楽しむ前向きさを取り戻した。

佐伯市に住み始めて二年が過ぎようとした頃か。

仕事から戻ってくると、朝来野さんの家に二台ほどの見慣れぬ車が停まっていた。

一台はワンボックスカーで、もう一台は高級セダンだ。

どちらも後部ウインドウにスモークを貼ってある。

お客さんかなと自宅へ入れば、隣から言い争うような声が漏れ伝わってくる。

――いつまでん、聞き分けがないねぇ!

――そげなこつ言うけん、アンタは。

朝来野さんの声ではない。聞き覚えのない、男女の声だった。

聞いてはいけないと分かっているが、勝手に耳に入ってくる。

理解しないようにしても、何となく意味することも分かってきた。

要するに、朝来野さんが大分市に持っている土地家屋などの権利関連を譲れ、という話であり、迫っている側は彼女の夫側の親族のようだ。

説得が通じないと分かったのか、また来ると告げて親族が帰っていった。

口を挟むべきではないと思うのだが、朝来野さんが心配だった。

江口さんはお菓子のお裾分けを口実に、隣を訪ねた。

「ああ、江口さん……」

疲れ切った表情の彼女が出迎える。お菓子を見せると、お茶を飲んでいけと誘われた。

居間に上げられ、テーブルの前に座らせられる。

湯飲みがひとつもなく、また、来客をもてなしたような形跡も見当たらない。

「聞こえちょったでしょ?」

曖昧な返事を返すと、笑いながら教えてくれた。

「私の夫が持っちょる財産の無心に来たち。夫の兄弟とそん子供らがね」

あの連中が自分と夫に何をしてきたか。今でも忘れないから、絶対渡したくないのだと朝来野さんは苦笑を浮かべている。

詳しい事情を訊くに訊けず、もくもくとお菓子を食べ、お茶を飲んだ。

この日を境に、朝来野さんの家には件の親族がたびたび来るようになった。

続く攻防のせいか、彼女の髪に白いものが増え始め、一気に老け込み始めていく。

助けられるものなら助けたい。恩返しをしたいと江口さんは申し出たが、いつもやんわりと断られる。

「心配ねえ。何とかなる」

気丈に振る舞うその姿は、明らかに無理をしている。

出来ることはないかと探したけれど、江口さんには何も思いつくことが出来なかった。

財産関連の話が始まってから数ヶ月後か。

夕方、朝来野さんが家にやって来た。

一週間ほど友達がいる奈良へ明日から旅行へ行くと言う。

餞別を渡そうとしたら固辞され、逆に二本の鍵を渡された。

「何処かで落としたら、よくないけん」

倉庫と金庫の鍵だった。

小さなマスコットが着いたキーホルダーに纏めて通されている。

ピンと来た。あの親族を警戒しているのだ、と。

多分、大事な権利書などを倉庫や金庫に入れているのだろう。確かに預かりますと答えると、彼女は安心したような顔で戻っていった。

読み通り、二日に一度くらいの割合であの親族たちがやって来る。

二回目くらいにはこちらの家を訪ねてきた。

初老で癖のある顔の男性と、派手な格好の中年女性だった。

「隣んもんは、何処へ行った?なんか聞いちょるか?」

知らないとだけ答えると、挨拶もなしに戻っていった。

朝来野さんが旅行から戻ってきた夜だ。

お土産を持って来てくれたので、家に上げた。

出されたお土産は、何故か奈良県のものではなく、宮崎県のものだった。

疑問に思うが、言って良いものか悩んだ。とりあえず鍵を返し、マグカップに入れたお茶を勧めるが、ひと口も口を付けてくれない。

「江口さん。これを元猿海岸で捨ててきち」

シンプルな、銀色の指輪だった。

磨き上げられたようにキラキラ輝いている。

ふと彼女の左手薬指を見る。同じデザインの指輪が光っていた。これまで意識していなかったが、夫が亡くなってからもずっと嵌め続けていたのだろうか。

捨てられないですよと断るが、頑として譲らない。

理由は教えず、こちらの言い分も聞いてくれなかった。

根負けし、了承すると安堵した表情を浮かべる。

そこで漸くお茶を飲み始めた。

宮崎土産を開けて差し出すと、普通に食べている。疑問に思っていないようだ。

旅行の話ではない雑談を続けていると、いつの間にか深夜に近くなっていた。

「あら、ごめん。お暇するわ」

何となく気になって、彼女を家まで送る。

室内に入るのを見届けてから自宅へ戻った。

指輪は大事に小物入れに収め、近いうち海岸まで行くことを決めた。

が、その日の朝方だったか。

鶏の声で目が覚めた。

辺りはまだ薄暗く、夜が明けきっていない。

声の感じから言って、多分、二羽か。

どうした訳か、頭の中に〈つがいの鶏〉の姿が浮かぶ。

声は近くから聞こえるが、この辺りに飼っている家はなかった。そもそも、ここには自分と朝来野さんの家しかないのだから、それは確実だ。

(野良鶏かな)

未だ覚醒しきっていない頭で考えていると、不意に鶏の声が止んだ。

そして、野太く劈くような野鳥らしき声が一度だけ響き渡った。

唐突に、しんと静まりかえる。

何となく胸騒ぎがして、いそいそと身支度をして外へ出た。

(……ん?)

朝来野さんの家の前に、男女が二人立っている。

あの親族ではない。どちらも若く、きちんとした身なりをしている。

男性は濃紺のスーツ。女性はグレーのスーツだった。

何故か白い手袋をしている。

向こうもこちらに気づき、頭を下げた。

挨拶をしながら近づくと、二人は笑顔で近づいて来る。

「早朝からお騒がせしております。朝来野様のお引っ越しでして」

引っ越し?まるで聞いていない。理解が追いつかない。

彼女の家の玄関は開けっ放しになっており、そこから見える部屋の中はすでに荷物を運び出されてがらんどうになっている。

昨日、旅行から戻ってきたばかりで、こんなに早く荷物を出せるものか。

いや、旅行中に持ち出されたのか。

違う。自分は毎日隣を気にしていた。問題の親族と預かった鍵のことがあったからだ。荷物の搬出はなかったと断言できる。それに、少なくとも昨日の夜に送っていったときにはそんな様子はなかった。では、いつの間に。

こちらの狼狽ぶりを察したのか、男性が口を開く。

「先ほど荷物は運び出し終えまして、あとはチェックをした後、施錠して帰ります」

引っ越し業者ではなく、不動産会社の担当なのだろうか。

(待て。さっき運び出したって?)

あれだけお互いの生活音が聞こえるような家同士だ。引っ越し作業の物音が聞こえないはずがない。聞こえて来たのは鶏と野鳥の声だけだ。

混乱の中、朝来野さんは?と訊ねると、女性の方が答えた。

「もう、お引っ越し先へ……」

玄関に鍵が掛け、男女は一台の白い車で走り去っていく。車体の何処にも社名の類いはなかった。だから何処の会社かすら分からなかった。

(なんで一言もなしで)

呆然としながら、自宅へ戻る。

ふと思い出した。以前、携帯番号を交換していたことに。

近いので、用があれは直接出向いていたので、これまで使ったことがなかった。

電話を掛ける。

『……お掛けになった電話番号は』

繋がらなくなっていた。

朝来野さんがいなくなってからも例の親族の訪問は止まない。

彼女の行方を知らないかと凄まれたが、答えようがなかった。

それでも繰り返し江口さんの家にやって来る。

何度目だったか、少し気になることがあった。

彼ら全員が怪我をしていたのである。

一番年嵩の男は、松葉杖。

少し若い男は顔や首筋にガーゼを当てている。

中年女性は、両手首に包帯が巻かれ、もうひとりの女性は片腕を吊っている。

事故にでも遭ったのかと玄関先に止められた二台のワンボックスと高級セダンを見れば、以前と同じ車種で、綺麗に磨き上げられていた。

こんな状態で運転が出来るのかと疑問に思っていると、叫び声が一度聞こえた。

子供の声だったように思う。言葉でなく、ただの悲鳴のような感じか。

親族が一斉に後方を振り返った。

誰も動く様子がない。

セダンの後部座席側ウインドウが僅かに開いた。

何かがその隙間で動いた――その瞬間、親族が一斉にワンボックスに乗り込み、走り去る。まるで逃げ出すような様子が垣間見えた。

(何なんだ?)

江口さんは疑問に思ったが、用事があるのでそのまま出かけた。

置き去りにされたセダンの脇を通り過ぎるとき、フロント側から車内を確かめる。

見た限り、誰も乗っていなかった。

後部ウインドウの隙間からも見てやれと横に立って気がつく。

いつの間にか窓はピッチリと閉まっていた。

スモーク越しに目を凝らすが、当然ながら見え辛い。

もう一度前方から中を覗いた。やはり隠れているような人間は居ない。

では、何故ウインドウが動いたのか。知らぬうちに閉じていたのか。

首を捻るほかない。

原因不明のまま出先で用事を済ませ、夕方戻ってくると、すでにセダンはなくなっている。

どうしたことか、セダンがあった場所に大量の塩が撒かれていた。

これが、彼らの姿を見た最後だった。

朝来野さんの行方は今も不明だ。連絡もない。

江口さんは三十歳になった。彼は現在大分市へ住居を移している。

小さなアパートにひとり暮らしだ。

実は、朝来野さんから預かった指輪を今も持っている。

理由はない。何となく捨てられなかったからに過ぎない。

彼女との約束を守っていないことだけが、心残りだ。

この指輪を思いつきで、左手薬指に嵌めてみたことがある。

どうした訳か、誂えたが如く江口さんの指にぴったりだった。

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