夷隅の想い出(千葉県夷隅郡) | コワイハナシ47

夷隅の想い出(千葉県夷隅郡)

千葉県夷隅郡の里山には、一九八〇年代前半ぐらいまでは古い習俗が残っていた。土地開拓の歴史は古く、古事記に「伊自牟」、日本書紀に「伊甚」として記録された地域である。域内で多数の古墳群が確認されており、埴輪や白銅製の神獣鏡も出土し、古代から祭祀儀礼が行われていた地域だと言われている。

その夷隅郡には、かつて夷隅町という町があった。二〇〇五年に近隣の二町と合併されたため、今はこの町名は無い。木野栄太郎さんの父方の一族は夷隅町の丘陵地に広い地所を有していて、本家と分家の当主は代々、官吏になる習慣だった。

栄太郎さんの生家は分家筋で、一九九五年までは小さな山の中腹に屋敷があったことから、高みの見物の「高見」に「どん」をつけた「タカミドン」という屋号で呼ばれていた。

元々、屋敷があった辺りには「モトヤシ」という呼び名がつけられていた。

本家はタカミドンに先んじて山の麓に居を構えるようになっていた。タカミドンは本家のすぐ近くに引っ越してきたのだった。

タカミドンと本家が新しく屋敷を構えた辺りから公道までの道は緩ゆるい坂道で、この道は両家及び近隣の人々から「ジョウボ」と呼びならわされていた。

ジョウボの脇には大きくて美しい蓮池があった。

栄太郎さんの母が若い頃、夕方、ジョウボを歩いていると人魂を見かけたそうだ。

太陽が沈んでゆく西の山間に向かってふわりふわりと去っていこうとしていたが、母が人魂だ、と気づくと、ポンッと音を立てて消えてしまった。

それ以来、ジョウボの蓮池の蓮の花が開くと、その度に、家の中にいてもポンッという音が聞こえるようになったと栄太郎さんの母は語っていたという。

──こうしたことはどれも昔々の話のように思われるかもしれないが、栄太郎さんは一九六八年生まれだから、それほど遠い過去の出来事ではない。

栄太郎さんの父方の祖父、つまりタカミドンの当主だった人は、四〇年ほど前にこの世を去った。しばらく前から認知症を患わずらって座敷に寝かされていたのだが、昼寝から目を覚ましたら、祖父はふいにモトヤシに帰りたくなったらしい。屋敷の裏山をモトヤシの方へ登っていく道すがら、ひと休みしようと持っていた紙巻き煙草「エコー」を吸い、その火が枯草から着物に燃えうつって火だるまになっているところを近所の人に発見されたのだ。

これが三月一五日の午後のことだった。

祖父は、こんな酷い目に遭うべき人ではなかったと栄太郎さんは思う。

祖父が郵政官吏時代に画家に描かせた肖像画が今でも屋敷に飾ってあるが、俳優の故・笠智衆にそっくりの顔立ちをした温和な人だった。祖父の先代が酒や博打ばくちにうつつを抜かして家族に迷惑を掛けた人だったので、反面教師にしたのかもしれない。堅実な人格者で、非常に穏やかな性質で、怒ったところを誰も見たことがなかった。

駆けつけた人々によって火が消され、救急車が来るまでの間、水で冷やされたが、祖父は全身に重い火傷やけどを負っていた。

事故当初は、それでも意識はしっかりしていて、救急搬送された先の病院で、医師や看護婦、お見舞いに来た家族や知り合いを「ありがとう」と労ねぎらっていたそうだ。

栄太郎さんは祖父を見舞うことを両親に止められた。彼はその頃まだ小学校三年生だった。変わり果てた祖父の姿を見たら恐怖を覚え、一生心に傷を残すかもしれないと両親が考えたようだ。

家族がみんな病院に行ってしまうと、栄太郎さんは祖父が火だるまになっていた場所を見に行った──モトヤシより少し下の辺りが七、八メートル四方も焼け焦げていた。

祖父を焼いた火勢の凄まじさを想像して怖くなり、泣きながら屋敷に引き返した。

翌一六日は、小学校の卒業式の予行演習に在校生として参加することになっていた。

木造校舎の講堂で予行演習をしている最中に、「今、お祖父さんが死んだ」と直感した。

家族からは何も連絡がなかったが、下校するまで気が気ではなかった。

ジョウボを走って屋敷に帰り、玄関まであともう少しというとき、ちょうど叔父が屋敷から出てきた。いつも見慣れた郵政官吏時代の祖父の肖像画を抱えていた。

続いて出てきた母から、肖像画を持ち出したのはお葬式のときに遺影にするためだと教えられた。

「僕、今日の予行演習のときに、お祖父ちゃんが死んだなと思ったんだ」

「それは虫の知らせというもんだ。栄太郎がそう感じた時刻はいつ?」

栄太郎さんが答えると、母は深くうなずいて、「その時間に、お祖父ちゃんはあの世に旅立ったんだよ」と言った。

父方の祖父の死の翌年、母方の祖父も逝ってしまった。

母の実家は「カニタ」と呼ばれていた。カニタの祖父は鳶とびの頭とう領りょうで、戦時中は海軍士官になり、戦後は町議会議員も務めた。白いエナメル靴に麻のスーツ、パナマ帽の伊達男で、慈善事業にも熱心、気っ風も良く、多くの人から慕われていた。

しかし晩年は、同居していた長男一家との折り合いが悪く、実の息子である長男からも冷遇され、かつての鳶の頭としての風格を失ってしまった。祖母が亡くなってからは、毎日々々、雨の日でも妻のお骨を納めたお墓を訪れては、長い時間、墓前に立ち尽くしていたという。

ある日、栄太郎さんたちが夕食後に家族で居間に集ってくつろいでいると、父と母が、少し驚いた表情で玄関の方角を振り向いた。

「はい!」と母がそちらへ向かって声を張って返事をし、小走りに居間から出ていった。

しかし、すぐに戻ってきて、父に「変だわ。誰も来てなかった」と言った。

「さっき『コンバンッ』って聞こえたわよね?」

それはカニタの祖父の癖で、夜に家を訪ねてきたときは必ず「コンバンッ」と挨拶するのだった。如い何かにも鳶の親方らしい威勢のいい大声で、「コンバンッ」と訪れた祖父からお土産をもらったことが、栄太郎さんには何度もあった。

しかし、父と玄関の外に出てみても、カニタの祖父の姿はなかった。

「俺も『コンバンッ』って聞いたのに、不思議なこともあるもんだな」

そのとき電話があり、カニタの祖父が亡くなったことを知らされた。栄太郎さんは自分には祖父の声が聞こえなかったことを両親に告げそびれた。

カニタの長男一家は、子どもたちまで全員が祖父につらくあたっていたが、とくに母親(長男の嫁)が残酷な仕打ちをしていた──ということを、祖父の死後に栄太郎さんは母から涙ながらに聞かされた。

カニタの嫁は、祖父が溺愛していた猫を嫌った挙句、祖父の目を盗んでどこかにやって(もしかすると殺して)しまったこともあるそうだ。衣食の世話もせず、祖父が弱って自力でやるのが困難になっても面倒をみようとしないので、母がときどき祖父のもとに通っては食事や洗濯の世話をしてやっていたのだ。

長男夫婦は祖父母の財産を用いて、古い屋敷に建て増しをする格好でガレージ付きの洋風の家を造って住んでいた。

一階のガレージに自分たちの車を入れて、二階は西欧式のモダンな家にしていたのだが、当時子どもだった栄太郎さんの目から見ても、とても不自然で異様な感じがしたという。

カニタの祖父の死後、その建て増した部分だけが火災で消失した。

電気系統の故障が原因だとされたが、増築部分以外の元からある屋敷は火の粉が飛んでこなかったわけもないのに無傷で済み、長男一家が暮らしていた二階は、跡形もなく焼けて消えてしまったとのことだ。

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