そこにある(大分県) | コワイハナシ47

そこにある(大分県)

大分県と言えば、温泉であろう。

由布市湯布院町や別府市などが有名だ。

別府市には〈地獄巡り〉という温泉がらみの観光スポットもある。

熊脇さんは三十代で、温泉好きの男性だ。

と、同時に単独行のトレッキングやハイキングも好んだ。

自然の中を歩き、最後、その土地の温泉に入るのは至上の喜びであったという。

そんな彼が大分県を訪れた。

レンタカーを使って、ひとりでトレッキングと温泉巡りをするためだ。

師走がやって来る前にと、十一月後半のことだった。

事前にネットで調べたところ、大分市にも高尾山があると知った。更に別府市にはトレッキングコースもある。

渡りに船だなと、彼は勇んでレンタカーを発進させた。

(凄いな、大分。いいところだ)

初日から大分県の素晴らしさに感動すら覚えた。

自然そのものにもだが、人間の温かさや食べ物の美味しさなど素晴らしい。

定年退職後には大分県の何処かへ移住したいと思ったほどだ。

それほど、大分の水は彼に合っていた。

二日目、三日目もその気持ちは変わらない。

四日目、翌日地元へ帰るという日の朝は、名残惜しい気持ちでいっぱいであった。

(帰りたくないなぁ……)

早朝から開始したトレッキング中、繰り返しそう思った。

しかし仕事が待っている。そんなことも言っていられない。

せめてこの美しい景色を目に焼き付けようと、ゆっくり噛み締めるように歩く。

そのとき、遠くに何か白い煙のようなものを見つけた。

最初は焚き火かと思ったが、それが湯気であることにすぐ気づいた。

山の中に湧き出した温泉だろうか。

名ばかりの秘湯とは違う、真の秘湯かも知れないと興奮を抑えきれない。

(せっかくだから、確認しに行こう)

コースを外れて、藪の中へ分け入った。

帰りに迷わないよう、何度も周囲の特徴や景色を頭に叩き込みながら、緩い傾斜を下っていく。落ち葉で足を滑らさないよう、足下も確認しながらなので、時間が掛かった。

湯気が近づいて来る。もう少しだろう。

木々の合間から見える斜面の下に、それらしきものが覗いた。

迂回するように降りていく。

「おお……!あったぞ」

自然に湧き出したと思われるお湯溜りを発見した。

大人ひとりが横たわることが出来そうな直径を持つ、歪な丸だ。

湯のせいか周囲の木や草はそこを避けるように生えている。

しゃがみ込み、恐る恐る手を近づけてみる。熱気を感じた。かなりの温度のようだ。

(そりゃそうだよなぁ。遠くから湯気が分かるくらいだし)

入浴は断念し、ザックからミラーレス一眼レフカメラを取り出したそのときだった。

背後から人の声が聞こえた。

若い男女の会話だ。振り返るが、誰も居ない。

上の方にあるトレッキングコースを行く人の声がここまで届いているのだろうか。

もう一度耳を澄ます。

〈……だ〉

〈……やだ〉

やはり声が聞こえる。次第に会話内容が分かってきた。

〈こんな所に居たくない〉

〈こんな所でいつまでも放置されるのは厭だ〉

細かい言い回しなどは忘れたが、概略このような内容だった。

(一体、何を言っているんだろう)

疑問しか湧かない。ただ、声は意外なほど近いことに気がついた。

立ち上がり、改めて周囲を見渡す。やはり誰の姿もない。

木の陰に誰か立っていないかと目を凝らすが、それらしき影も見えない。

しかし声は更に近づいてくる。

〈家に帰りたい〉

〈どうして誰も見つけてくれないのか〉

訴えるような言葉が、ハッキリと聞こえた。

身が固くなる。自分は一体、何者の声を聞いているのか。

この場から離れようとしたときだった。

〈連れて行って〉

右耳のすぐ傍で、女の声が聞こえた。

〈そこにあるから〉

左耳に男の声が響いた。

熊脇さんは右手にカメラを持ったまま、一気に斜面を駆け上がる。

黒い土に爪先を突き込むようにして、最短距離でコースまで戻ろうとした。

しかし、声が追ってくる。

〈そこにあるから〉〈連れて行って〉

振り返るが、誰の姿もない。

空いた方の手で枝や幹を掴み、上を目指す。

しかし、さっきあれほどチェックしておいた特徴も景色も出てこない。出てくるのは、覚えのないものしかない。しかもあれだけ地面にあった落ち葉すら見当たらない。

自分がさっきまでいた場所と、全く違う所のように思えた。

(嘘だろ……嘘だろ……)

焦りが生まれる。声は止まない。

〈そこにあるから〉〈連れて行って〉

正体不明の声を掻き消そうと大声を出しながら上るが、声は余計に強まっていく。

否。まるで頭蓋の中で響いているが如く、明澄さを増していく。

どれくらい必死に逃げただろうか。

パッと視界が開けた。

そこには初老の男女が居て、思わず叫び声を上げてしまった。当然、向こうもこちらに驚いた目を向けている。

トレッキングコースに戻れたようだ。

いつの間にか、あの声も聞こえなくなっている。

「……どうしたんだ?」

ほっと安堵していると、男の方が詰問調で声を掛けてきた。

今、その下で、湯気が。声が。落ち葉がなくて。知らない道で……口から出て来るのは支離滅裂な言葉だけだ。

「いいから、それを仕舞え」

仕舞え?何を?男が指を指す先に視線を下ろす。

わあ、と声を出してしまった。

いつの間にか、自分の右手に鈍く光るナイフが握られていた。

大人の握り拳の幅程度の刃渡りを持つ、アウトドアナイフだった。

(俺のじゃない)

こんなもの、見た覚えも、買った覚えも、持っていた覚えもない。

咄嗟に、ナイフを下の方へ投げ捨てた。

「おいッ!キミは何を……」

男が身構えるのが分かった。これ以上、何を言っても通じない気がする。

熊脇さんはその場から走り去った。

駐車場へ辿り着き、レンタカーの助手席へザックを放り込む。

運転席に着くと、後ろも見ずにエンジンを掛け、逃げるようにその場を後にした。

市街地に戻ってきた辺りで、漸く気持ちが落ち着きを取り戻す。

(ヤバいんじゃないか?あの初老の男女に通報でもされているんじゃないか?)

まず頭に浮かんだのはこのことだった。

次に、あのおかしな出来事を思い出す。

姿なき男女の声。そして、ナイフ。

(何故、あんなものを右手に。……あ)

カメラはどうしたのか。あのとき、カメラを持ったまま逃げた。それは確かだ。空いた手を使ってよじ登った場所もある。しかしそれは何処までだったか。

無意識の内に何処かで落としたとしか思えない。

探しに戻るか。いや、もう行きたくない。

通報されている可能性もだが、再びあの正体不明の声を聞くのも厭だ。

(待て。待て。まずは何かを飲んで落ち着いてからだ)

近くに見えたコンビニの駐車場へ入る。

財布とスマートフォンを取ろうと、ザックを開ける。

「あ」

カメラが入っていた。

確かにあの場所で取り出したはずなのに、いつの間に戻ったのだろう。いや。そんな覚えは微塵もない。そんな余裕はなかったのだから。

念のため、カメラを起動させてみた。

電源は入る。撮影データも残っていた。

しかし、写した覚えのない草むらの風景が一枚と、短い動画が最後に記録されている。

草むらは何の変哲もないものだ。

動画は動画でずっと手ぶれしており、何を撮影したのか判別がつかない。

強いて言えば、手に持ったままレンズを地面に向けていれば、このような状態になるかも知れない。

音量を上げてみると、自分の息遣いらしきものが入っていた。それには木霊するようにきついエコーが掛かっている。

草むらと動画の撮影データを確かめた。

日付と時間は、今日訪れたトレッキングコースを歩き始めた頃だ。

(あそこで、カメラを取り出したのは、湯が沸き出していたあそこだけだったはずだ)

訳が分からない。急に背中が寒くなった。

画像データを消し、カメラをザックへ戻した。

翌年の十一月、熊脇さんは大分県を再訪した。

再確認のため、あのトレッキングコースを歩くためだ。

通報はされなかったようだし、他におかしなこともなかった。

しかし、再び自らの目で確かめない限り、どうにも落ち着かない。

だから、やって来た。

早朝からゆっくりとコースを歩いたが、あの湯気を発見出来ない。

何度かコースを外れてみたものの、それらしい場所も見当たらなかった。

それでも彼は今も定年退職したら大分県に住みたい、と思っている。

あの日の出来事はなかったこととして――。

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