大分県と言えば、温泉であろう。
由布市湯布院町や別府市などが有名だ。
別府市には〈地獄巡り〉という温泉がらみの観光スポットもある。
熊脇さんは三十代で、温泉好きの男性だ。
と、同時に単独行のトレッキングやハイキングも好んだ。
自然の中を歩き、最後、その土地の温泉に入るのは至上の喜びであったという。
そんな彼が大分県を訪れた。
レンタカーを使って、ひとりでトレッキングと温泉巡りをするためだ。
師走がやって来る前にと、十一月後半のことだった。
事前にネットで調べたところ、大分市にも高尾山があると知った。更に別府市にはトレッキングコースもある。
渡りに船だなと、彼は勇んでレンタカーを発進させた。
(凄いな、大分。いいところだ)
初日から大分県の素晴らしさに感動すら覚えた。
自然そのものにもだが、人間の温かさや食べ物の美味しさなど素晴らしい。
定年退職後には大分県の何処かへ移住したいと思ったほどだ。
それほど、大分の水は彼に合っていた。
二日目、三日目もその気持ちは変わらない。
四日目、翌日地元へ帰るという日の朝は、名残惜しい気持ちでいっぱいであった。
(帰りたくないなぁ……)
早朝から開始したトレッキング中、繰り返しそう思った。
しかし仕事が待っている。そんなことも言っていられない。
せめてこの美しい景色を目に焼き付けようと、ゆっくり噛み締めるように歩く。
そのとき、遠くに何か白い煙のようなものを見つけた。
最初は焚き火かと思ったが、それが湯気であることにすぐ気づいた。
山の中に湧き出した温泉だろうか。
名ばかりの秘湯とは違う、真の秘湯かも知れないと興奮を抑えきれない。
(せっかくだから、確認しに行こう)
コースを外れて、藪の中へ分け入った。
帰りに迷わないよう、何度も周囲の特徴や景色を頭に叩き込みながら、緩い傾斜を下っていく。落ち葉で足を滑らさないよう、足下も確認しながらなので、時間が掛かった。
湯気が近づいて来る。もう少しだろう。
木々の合間から見える斜面の下に、それらしきものが覗いた。
迂回するように降りていく。
「おお……!あったぞ」
自然に湧き出したと思われるお湯溜りを発見した。
大人ひとりが横たわることが出来そうな直径を持つ、歪な丸だ。
湯のせいか周囲の木や草はそこを避けるように生えている。
しゃがみ込み、恐る恐る手を近づけてみる。熱気を感じた。かなりの温度のようだ。
(そりゃそうだよなぁ。遠くから湯気が分かるくらいだし)
入浴は断念し、ザックからミラーレス一眼レフカメラを取り出したそのときだった。
背後から人の声が聞こえた。
若い男女の会話だ。振り返るが、誰も居ない。
上の方にあるトレッキングコースを行く人の声がここまで届いているのだろうか。
もう一度耳を澄ます。
〈……だ〉
〈……やだ〉
やはり声が聞こえる。次第に会話内容が分かってきた。
〈こんな所に居たくない〉
〈こんな所でいつまでも放置されるのは厭だ〉
細かい言い回しなどは忘れたが、概略このような内容だった。
(一体、何を言っているんだろう)
疑問しか湧かない。ただ、声は意外なほど近いことに気がついた。
立ち上がり、改めて周囲を見渡す。やはり誰の姿もない。
木の陰に誰か立っていないかと目を凝らすが、それらしき影も見えない。
しかし声は更に近づいてくる。
〈家に帰りたい〉
〈どうして誰も見つけてくれないのか〉
訴えるような言葉が、ハッキリと聞こえた。
身が固くなる。自分は一体、何者の声を聞いているのか。
この場から離れようとしたときだった。
〈連れて行って〉
右耳のすぐ傍で、女の声が聞こえた。
〈そこにあるから〉
左耳に男の声が響いた。
熊脇さんは右手にカメラを持ったまま、一気に斜面を駆け上がる。
黒い土に爪先を突き込むようにして、最短距離でコースまで戻ろうとした。
しかし、声が追ってくる。
〈そこにあるから〉〈連れて行って〉
振り返るが、誰の姿もない。
空いた方の手で枝や幹を掴み、上を目指す。
しかし、さっきあれほどチェックしておいた特徴も景色も出てこない。出てくるのは、覚えのないものしかない。しかもあれだけ地面にあった落ち葉すら見当たらない。
自分がさっきまでいた場所と、全く違う所のように思えた。
(嘘だろ……嘘だろ……)
焦りが生まれる。声は止まない。
〈そこにあるから〉〈連れて行って〉
正体不明の声を掻き消そうと大声を出しながら上るが、声は余計に強まっていく。
否。まるで頭蓋の中で響いているが如く、明澄さを増していく。
どれくらい必死に逃げただろうか。
パッと視界が開けた。
そこには初老の男女が居て、思わず叫び声を上げてしまった。当然、向こうもこちらに驚いた目を向けている。
トレッキングコースに戻れたようだ。
いつの間にか、あの声も聞こえなくなっている。
「……どうしたんだ?」
ほっと安堵していると、男の方が詰問調で声を掛けてきた。
今、その下で、湯気が。声が。落ち葉がなくて。知らない道で……口から出て来るのは支離滅裂な言葉だけだ。
「いいから、それを仕舞え」
仕舞え?何を?男が指を指す先に視線を下ろす。
わあ、と声を出してしまった。
いつの間にか、自分の右手に鈍く光るナイフが握られていた。
大人の握り拳の幅程度の刃渡りを持つ、アウトドアナイフだった。
(俺のじゃない)
こんなもの、見た覚えも、買った覚えも、持っていた覚えもない。
咄嗟に、ナイフを下の方へ投げ捨てた。
「おいッ!キミは何を……」
男が身構えるのが分かった。これ以上、何を言っても通じない気がする。
熊脇さんはその場から走り去った。
駐車場へ辿り着き、レンタカーの助手席へザックを放り込む。
運転席に着くと、後ろも見ずにエンジンを掛け、逃げるようにその場を後にした。
市街地に戻ってきた辺りで、漸く気持ちが落ち着きを取り戻す。
(ヤバいんじゃないか?あの初老の男女に通報でもされているんじゃないか?)
まず頭に浮かんだのはこのことだった。
次に、あのおかしな出来事を思い出す。
姿なき男女の声。そして、ナイフ。
(何故、あんなものを右手に。……あ)
カメラはどうしたのか。あのとき、カメラを持ったまま逃げた。それは確かだ。空いた手を使ってよじ登った場所もある。しかしそれは何処までだったか。
無意識の内に何処かで落としたとしか思えない。
探しに戻るか。いや、もう行きたくない。
通報されている可能性もだが、再びあの正体不明の声を聞くのも厭だ。
(待て。待て。まずは何かを飲んで落ち着いてからだ)
近くに見えたコンビニの駐車場へ入る。
財布とスマートフォンを取ろうと、ザックを開ける。
「あ」
カメラが入っていた。
確かにあの場所で取り出したはずなのに、いつの間に戻ったのだろう。いや。そんな覚えは微塵もない。そんな余裕はなかったのだから。
念のため、カメラを起動させてみた。
電源は入る。撮影データも残っていた。
しかし、写した覚えのない草むらの風景が一枚と、短い動画が最後に記録されている。
草むらは何の変哲もないものだ。
動画は動画でずっと手ぶれしており、何を撮影したのか判別がつかない。
強いて言えば、手に持ったままレンズを地面に向けていれば、このような状態になるかも知れない。
音量を上げてみると、自分の息遣いらしきものが入っていた。それには木霊するようにきついエコーが掛かっている。
草むらと動画の撮影データを確かめた。
日付と時間は、今日訪れたトレッキングコースを歩き始めた頃だ。
(あそこで、カメラを取り出したのは、湯が沸き出していたあそこだけだったはずだ)
訳が分からない。急に背中が寒くなった。
画像データを消し、カメラをザックへ戻した。
翌年の十一月、熊脇さんは大分県を再訪した。
再確認のため、あのトレッキングコースを歩くためだ。
通報はされなかったようだし、他におかしなこともなかった。
しかし、再び自らの目で確かめない限り、どうにも落ち着かない。
だから、やって来た。
早朝からゆっくりとコースを歩いたが、あの湯気を発見出来ない。
何度かコースを外れてみたものの、それらしい場所も見当たらなかった。
それでも彼は今も定年退職したら大分県に住みたい、と思っている。
あの日の出来事はなかったこととして――。