これは友人が体験した奇妙な話である。
会社の飲み会に参加した彼は、近くの公園で酔いを醒ますことにした。密かに恋心を抱いていた同期の女性が寿退社を発表したのである。相手は新入社員時代、自分達を教育してくれた五歳年上の上司。ショックだった。自分の知らない所で二人が逢瀬を重ねていたのかと思うと腹も立ち、ジョッキを空けるペースも速くなる。祝福の言葉も喜びの笑顔も向けられず、こんなことで自分は営業マンとしてやっていけるのかそっちの自信もなくなった。ベンチに座り、空を仰ぎながら「……畜生」とぼやいた時である。
「……すみません……すみません……」
突然、背後から声が聞こえてきたので慌てふためく。よく見ると女性が頭を庇うように座り込んでいるのが見えた。年齢は恐らく大学生くらい、幼さの残る顔に対して非常に田舎っぽいボロボロの格好をしている。更に驚くのは全身が水浸しで、前髪の先から水滴が滴り落ちていたことだ。通り雨でも降ったか?しかし空には星が出ているし、何より地面は全く濡れていない。
(ホームレス狩りにでもあったのだろうか……)
この辺りはお世辞にも治安が良いとは言えず、先日もボヤ騒ぎがあったと聞く。犯人は未だに捕まっていないらしいとも。
関わらないほうがいい、無視して立ち去るべきだ。そう考えて立ち上がるが、なかなか一歩が踏み出せない。ガリガリと頭を乱暴に掻きむしり、思いきって声をかけた。
「……あー、その……大丈夫、っすか?」
自分でも素っ頓狂なセリフに感じ、酔いとは関係なく顔面が熱くなる。けれど相手は何も答えず、ただ黙ってうずくまるばかり。暗がりでも、肩が震えているのが分かった。寒さというより、恐ろしさからだろう。
「身体、濡れてますけど……どうしたんすか?」
更に質問を重ねても応答はない。こういう場合、どうすればいいんだと考えて、とりあえずハンカチを差し出してみた。
「――――ヒッ!」
彼女は目を見開き、自身の身体を抱きしめながら後退る。この怯え方は異常だ。(強姦でもされたのか?とはいえ着衣の乱れはないから、未遂って所か)
どうするべきか悩み、友人が出した結論は……膝をつき両手を上げ、普段より高い声で「俺は味方です!」と言うことだった。
「そのままだと風邪を引きます!俺の家、近くなんで!あ、大丈夫です!指一本触れることはしません!俺、童貞なんで!」
口走ったことを後悔したが、信頼を得るためには仕方ないと自分に言い聞かせる。その甲斐あったか不明だが、彼女の表情は少しずつ穏やかになっていく。
「恐くない、恐くないよ」
動物の餌付けみたいだが、怯える女性の落ち着かせ方など分からない。ゆっくり手を差し伸べ、彼女の手に触れる。一瞬びくんと小さな身体が跳ね上がるが、拒絶されることはなかった。冷たい、そして想像よりも硬い指。
「行こう。いつまでも、ここにいたら危ない」
こうして友人は、失恋とともに謎の女性を匿うことになった。
「ああああ、やっちまった……これって犯罪じゃないのか?誘拐?売春?いやいや俺は何もやってない!」
数時間後、眠りに就いた彼女を起こさないよう友人はトイレへ籠もり、葛藤していた。
酔って気持ちが大きくなっていたのか、それとも冷静な判断が行えなかったのか。とはいえ連れてきたものは仕方ない。今後のことを考えなければ。
彼女は不思議な人だった。終始オドオドとしており、落ち着きなく辺りを窺う。電気をつけたり携帯電話が鳴ったりしただけで慌てふためく。まるで猫のようだ。
一人暮らしで掃除をさぼっていた浴槽を磨き、湯船を溜める。女性でも着られるようなスウェットや新品バスタオルを用意して風呂を勧めた。
不思議な気持ちがする。自分の部屋に女性がいて、よもや風呂に入っているなど。下心が湧かないといえば当然嘘になるが、怯えた相手を襲うほど腐っていない。
「そんな度胸もないしさ……」
風呂から上がってくるまでに食事の用意をしなくてはと思い立ち冷蔵庫を開ける。見事に調味料とビールしか入っていない。
幸いにもコンビニは近いのでひとっ走り買ってこようと決意。気付けば酔いなど吹っ飛んでいて、人間の身体は不思議なものだなぁと思う。
適当に弁当やサラダ、お茶などを買って戻ってくると、タイミングよく洗面所の扉が開く。そこから現れたのは用意した服を着た石鹸の香り漂う彼女。
心臓の高鳴りを抑えつつ「これ、食べよう」と買い物袋を掲げる。
小さなテーブルに買ったものを並べ、勧める。最初は戸惑っていた彼女だが、弁当に入った煮物を一口頬張ると堰を切ったように箸を動かしていく。それを眺めながら、ほっと一安心する友人。子供の頃、母親はよく言っていた。御飯さえ食べられれば大丈夫と。
ものの数分で食事を終えた彼女は、突然床に両手をつき頭を下げる。所謂、土下座だ。
「…………ありがとうございました」
鈴の音が鳴ったような透き通る声。感謝されることに慣れていない友人は「いっ、いやいや!いいから!当然のことだし!頭を上げてよ!」と動揺する。
「でも何で、あんな場所にずぶ濡れで座ってたの……?」
思いきって訊ねてみると、意外な言葉が返ってきた。
「……思い、出せません……」
年齢も、住所も、自分の名前ですら分からないと言う。
「記憶喪失……?」
テレビや本では知っているが、実際に症状のある人と会うのは初めてだ。
「何か覚えていることって、ない?」
「……道……山……滝の水が……人……大勢に……私……嫌……やめてください……!やめて……!」
再び怯え始めた彼女に友人は「もういい!思い出さなくていいから!」と制止。
(辛いことがあって記憶がなくなっているのかもしれない。そうなれば無理に思い出させるのは、よくないだろうな……)
医療に関する知識はないが、思い出したくもない過去はある。今はそっとしておき、時間が解決するのを待つのが得策と考えた。
「俺のことは気にせず、ここにいていいから」
努めて明るく言うと、彼女は再び「ありがとうございます」と言って土下座を行う。今時ではめずらしい古風な人だ。親の躾が厳しかったのかもしれない、そんなことを考える。
「とりあえず名前、必要だよね。俺も何と呼べばいいか分からないし。どうしようか」
「お好きなように、お呼びいただいて構いません」
「そういう訳にも……じゃあ……『みゆき』さんで、どうかな……?」
その時、咄嗟に思い浮かんだ失恋相手の名前を口走ってしまう。しまった、と思ったが相手は当然そんなことなど知りもしないので「かしこまりました」と承諾。後ろめたさが胸を刺したが、後戻りはできないと自分に言い聞かせる。
「じゃあ……よろしくお願いします……みゆきさん……」
未だに頭を上げない彼女に向かって、友人も新人研修で得たお辞儀をしてみせた。
「最近、調子が良さそうじゃないか」
先輩上司が言ってくる。「そ、そうっすか?」と言いつつ自分でも気付いていた。
みゆきと同棲生活を行うようになって、友人は正に絶好調。初日は留守番させることに心配もしていたが、それが杞憂だったとすぐに気付く。早めに仕事を終えて夕方に帰ってきたのだが、部屋は驚くほど綺麗に掃除されていた。水カビだらけだった台所はシンク本来の輝きを取り戻し、溜まっていた洗濯物は綺麗に畳まれクローゼットの中へ。何かあった時にと思って事前に渡した一万円札は二人の夕飯に変化していた。お金や物品を盗んで逃げられたとしても後悔はしないと腹を括っていたが、まさかこんな結果になろうとは。
だが困ったことも多かった。記憶喪失のせいで家電製品の使い方や紙幣の存在すら分からなかったのである。お世辞にも教え方が上手とは言えなかったが、みゆきは元々物覚えがよく一度教えたことは何でも完璧にこなす。
(一時的に記憶が消えているだけで、一から覚え直す訳じゃないから?)
更に驚いたのは、家事全般が最初からできること。今も食卓に並んだ味噌汁や魚の煮付、お浸しや煮物など実家の母親が作るより遥かに美味かった。スーパーへ一緒に行った際も彼女自身が食材を選び、信じられない程の手際で料理に変貌させる。
それまでは一人暮らしということもあり不摂生な生活を送っていたが、彼女の存在により生活バランスが一気に改善。苛々することもなくなり、身体の調子もすこぶる良い。
(どうしようもない俺に、神様がみゆきさんを差し向けてくれたのかも……)
最近では、本気でそんなことを考えるようになった。
「もしかして、彼女でもできたのか?そうだろ」
肘でつつかれながら茶化され、慌てて否定をする。
そう、俺達は恋人同士ではない。いつか記憶が戻れば、離れ離れになるだろう。
(……だったら、ずっと今のままでいてもらったほうが……)
とんでもないことを考え、友人は頭を左右に振った。あまりに不謹慎すぎる。人の不幸につけこむなど、最低の行為だ。こうしている今でも、彼女の家族や恋人が捜索をしているかもしれないのだから。
「隠さなくてもいい。忠告しておくぞ、普段から感謝の気持ちを忘れるな。プレゼントを渡すことも効果的だ」
プレゼント……とはいえ、何を渡せばいいのか分からない。
「気持ちが伝わればいいのよ。頑張って私のために選んでくれたってことが肝心だから」
話を聞いていた別の女性社員が口添えしてくる。
「アンタも後輩の世話やいてないで、新婚早々に愛想尽かされないよう気をつけなさいよ?」
「心に留めておきます」
笑いあう二人を他所に、友人は「プレゼントか……」と呟いた。
自宅マンションの玄関扉まで来ると、魚が焼ける匂いがした。
「おかえりなさいませ」
何度も敬語はやめてほしいといったが、直すつもりはないのだろう。
「火を熾さずに焼けるとは、この『ぐりる』というものは凄いですね」
興奮した様子で話す彼女を友人は愛らしく感じる。着ていたスーツを脱がせてもらう際、ポケットへ何か入っていることに気付くみゆき。
「確認してみて?」
了承を得て取り出すと、小さな包みが出てきた。
「失礼します……あ、これは……髪留めですか。綺麗……」
「安物で悪いんだけど」
「受け取っても、よろしいのですか?」
「勿論だよ」
みゆきは大事そうに髪留めを抱きしめて「ありがとうございます」とお礼を告げる。
人に喜ばれることが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
「――あ、申し訳ありません。すぐに食事の御用意をいたします」
そう言って、みゆきは台所へ消える。まるで召し使いのようで気が引けるが、相手がそれを望んでいる様子もあった。こちらが食事を終えるまで絶対に手を付けないなど徹底しており、彼女がいなくなった後に元の生活に戻れるのか心配になってしまう。
(なぜだか今日は、ネガティブなことばかり考えてしまうな……)
きっと怯えているのだ。彼女の存在が大きくなっていることに対して。
気でも紛らわせようとテレビの電源をつける。番組ディレクターらしき男が田舎をレポートしていた。これ系の番組を観て感慨に耽る程、自分は老いていないとチャンネルに手をかけた時――ガシャンと大きな音が立つ。
驚いて視線を向けると、青ざめた表情のみゆきと割れたコップが足元に転がっていた。
どうしたんだと声をかけようとした瞬間、友人はみゆきが言っていた言葉を思い出す。
『……道……山……滝の水が……』
「まさか、この場所とみゆきさんの記憶に何か関係が……!?」
調べると、そこは地元に存在する廃村だった。一瞬悩みつつ、友人はみゆきに告げる。
「明日、会社を休む。一緒にこの場所へ行ってみよう」
驚いた表情を見せたみゆきだが、しばらくして小さく頷いた。
その日の夜、明日のために早く休もうと決める。いつものように離れた場所へ布団を二つ敷き始めると、みゆきから初めてお願いをされた。
「……手を、握ってもらえませんか……?」
心臓が飛び出そうな程に緊張したが、彼女の手を触れた瞬間に下心も霧散する。
僅かな震えが、こちらにも伝わってきたからだ。
記憶を呼び起こすことに恐怖を感じているのかもしれない。自分が自分でなくなるかもしれない、それは死刑宣告に近いのではないか。
一番辛いのは当人だ。自分は何があっても受け入れる覚悟をしておかなければ。うっすらとカーテンが明るくなるのを見つめながら、友人はそんなことを考えていた。
レンタカーでやってきたのは、広島市安佐南区にある『丹原集落』……ここは今から約九百年前に有馬中将千賀守という武将が戦から逃れ、隠れ住んだ場所と言われている。
宇賀大橋を渡り丹原ダムを通り山道を延々と進んでいくと、どこかから水音が聞こえてきた。道中、繋いでいた手はそのままに二人で向かう。
「あった。ここが権現滝と呼ばれている所だよ」
みゆきは家を出てから一言も喋らない。最初に出会った頃のように、時折ビクビクと怯えながら落ち着きがなかった。まるで何者かに追われているかのように。
「何か思い出したことはある……?」
訊ねるが、みゆきは頭を左右に振った。もしかして記憶の元は、ここじゃない?そんな不安を感じつつ、更に奥へ進んでいく。すると少しずつ、みゆきに異変が生じ始める。
ぼんやりと周囲を窺いながら、ぶつぶつと独り言を呟くようになった。
「……そう……ここで、私は……追いかけられて……」
『丹原の跡』と彫られた石碑を見た瞬間、更に様子がおかしくなる。
「……そう、ですか……村の皆は……もう……」
ふっと友人の手から温もりが消えた。手を放したみゆきが前を歩く。
「……御館様の申されていたこと……ようやく私にも理解が……」
「みゆきさん、一人で先に行くと危ない!」
猪や熊が出現する可能性は高い。友人は注意を促すが、みゆきは進んでいく。
「みゆきさん!」
大きな声で相手の名前を呼ぶ。既に彼女の姿は引き離され見えなくなっていた。倒れた大樹を飛び越え、藪を掻き分け前に進む。すると一気に開けた場所に出た。
『……ごめんなさい……ありがとう……』
彼女の声が聞こえた気がして辺りを窺う。すると、何やら光るものを発見。
「これは俺があげた、髪留め……」
その後、友人は捜索願いを出すも、みゆきと再び出会うことはなかった。自宅に戻ると、まるで最初から存在していなかったかのように彼女の衣服等は消えていたと言う。
彼女が一体どこから現れ、何者だったのかは分からない。けれど丹原集落を調べていくと、閉塞状態にあったこの地で血縁を絶やさぬよう近親相姦や身寄りのない子供を囲った噂もあったらしい。
警察の捜査取り止めと同時に、友人も髪飾りを集落へ埋めることに決めた。
自分との思い出を、忘れてもらわぬように。