決まりごと(大分県) | コワイハナシ47

決まりごと(大分県)

大分県内の話である。

ただし、プライバシー保護のため、詳細は秘す。

安心院(あじむ)さんという人物が居る。

彼女は四十歳を越えても、結婚することなく大分県内で暮らしていた。

家には両親がおり、三人家族だ。

他、近隣に数軒、親族の家がある。

よく行き来があるので、仲は良い方だという。

この安心院家と親族には、持ち回りで〈ある事〉が課せられていた。

それは〈三年に一度、福岡県八女市から大分県臼杵市の間に存在する、ある場所・数ヶ所を、決められた人がひとりで参ること〉である。

この東西の道のりを車で走るだけなら一日で終わる。

だが、途中で決まった場所でお参り、となると時間が掛かる。

その上、場所はお寺や神社ではない。

山の麓にある林、田畑の脇、時には知らない人間が住む家の傍で、何処にせよ車がないと辿り着けないような不便な所ばかりである。

それぞれ目印があるらしいのだが、安心院家と親族にしか分からないものが多い。

だから、他人からすれば「何故あの人は一体あんな所で何を拝んでいるのだ」と訝しげな目を向けるだろう、とは安心院さんの弁である。

では、三年に一度、八女市から臼杵市まで巡るのは誰なのか。

それは〈安心院家と親族であり、成人した人間なら誰でも良い〉らしい。

元々は数えの十五歳以上としていたようだが、現在は車の免許を取得できる十八歳以上の人間となった。

また、三年ごとと決まっているので「今回は○○の家のなんとかちゃん、次はあそこのなんとかくん」と先に決定しておける。

これにより、遠方に住む人間でも予定を組みやすくなるのだ。

加えて言えば〈出来るだけ初めて参る人間に行かせる。もし該当する者が居なければ、前に待ったことがある人物でもよい〉〈また安心院姓や親族の姓になった人間なら該当するので、嫁に来た女性も役目を果たすことが出来る〉のだ。

だから、安心院さんのお父さんは二度ほど参っているし、お母さんも一度ひとりで行かされたこともあった。

このような面倒なことをいつから続けているのかと言えば、明治時代辺りからだった。

安心院さんがこの〈お参り〉をしたときのことを教えてくれた。

彼女の順番が回ってきたのは、二十一歳のときだ。

自分の車で回ることとなった。

事前にコースと目印、幾つかあるルールの詳細を教えて貰う。

初めて聞くものも多かったので、全てメモをしないと覚えきれなかった。

〈出発は旧暦の正月、元旦〉

〈八女市から始めるので、前日から福岡県入りしておく〉

〈日が昇ってから、日が暮れるまでに参ること〉

〈始めた日の途中、一泊してよい〉

〈しかし、開始から一泊二日で全行程を終えること〉

〈参る時は、必ず西を向き、決まった文言(呪文のような感じ)を唱えること〉

〈唱え終わったら「三つあげます」と言い、締めること〉

〈行程の間、食事は普通に摂って良い。だが酒は呑まぬこと〉

他、他にも細かい項目がある。

これらのことを守って参るのだ。

正直なところ、面倒くささの方が先に立つ。

しかしそうも言っていられない。安心院家と親族全てのならわしなのだ。

半分嫌々ながら、彼女は八女市に入る。

翌日、最初の場所で目を丸くしてしまった。

目印の通りに探したのだが、一見、本当に何もない茶畑の端だったからだ。

コンパスを取り出して、西に向かい、呪文を唱え、「三つあげます」と口にする。

早朝だから人目がなくて良かったと思いながら。

次は知らない家の近くで、次が山に向かって、だった。

続ける内に、彼女の中で猜疑心が頭を擡げた。

(こんなこと、いちいち真面目にやらなくたって、いいのでは?)

だいたい、ルールだって守らなくとも問題がないような気がする。

だから、翌日、四つ目の場所でわざと東を向いてから始めた。

ところが途端に気分が悪くなる。

立っていられなくなり、吐き気を催した。しゃがみ込むと、誰かに頭を掴まれ、地面に向かって押さえ付けられるような感覚も襲ってくる。

咄嗟に謝罪の言葉が出た。途端に体調は元に戻る。

(ああ、これは本当に守らないといけないのだな)

安心院さんは改めてルールに則り、残りのお参りを続けた。

全部で五ヶ所、全てを終えて帰路につく。

自宅へ戻ると、すぐに塩を頭から振りかけられ、風呂に入れられた。

これで三年に一度のお参りが終わるのだ。

では、何故このようなお参りをしなくてはならないのだろう?

彼女が知るところに寄れば、明治時代の安心院家の人間の行動に端を発する。

それは〈磨崖仏〉に関係していた。

磨崖仏とは自然の岩壁や大きな岩に彫られた仏様である。

だから普通の石仏のように移動させることは出来ない。

実は日本全国の磨崖仏の大半が、大分県にある。

当然、明治時代の安心院家当主も存在を知っていた。

そして、当主は自分が持つ山の岩肌に磨崖仏を彫り始めたらしい。

だが仏師でも僧侶でも何でもない人間である。彫り進めれば彫り進めるほど形は崩れていく。最終的には、人の背丈くらいのよく分からない代物になったようだ。

それでも当主は喜び、毎日拝んだ。

ところが、この磨崖仏完成から安心院家とその親族に繰り返し不幸が起こった。

働き盛りの男数名が病に倒れ、寝込む。

死産が繰り返される。

更に親族全体に年若くして死ぬ者が増えた。

持っていた田畑は作物がまともに成長しない。

流石にこれは手製の磨崖仏に何かあると親族一同気づいたものの、どうしようもない。

当主は当主で「自分が彫った磨崖仏に問題はない」と認めなかった。

が、あるとき、遠いところから来た修験者に相談する機会に恵まれた。

「ああ、これは当主が作った、紛い物の磨崖仏のせいだ」

彫られたのは仏でも何でもないこと。

そして、邪念を持って拝んだがために、障りのある存在になったこと。

「障りを逃れるには、今から教える五つの場所で、教えたとおりに拝みなさい」

修験者の指示で、今で言う八女市から臼杵市の間の五ヶ所を参ることになった。

決まり事は前述の通りである。

ところが、当主は一切修験者の言うことを信じなかった。

自分が彫った磨崖仏を馬鹿にされたと、逆に怒りを露わにしたくらいである。

しかし、その当主が急死した。

自ら作った磨崖仏を拝んでいる最中に起こった土砂崩れに巻き込まれたためだった。

掘り出すと頭蓋が砕かれた状態で、直視できない姿であった、と言う。

その周辺には当主が彫った磨崖仏の欠片が転がっていたが、何故か頭部だけがそのままの形を保っていたという。

因みにこの頭部は大正時代まで崖下に放置されていた。

それ以降の行方は不明である。

当主の死後、安心院家は拝み屋の言うとおり〈お参り〉を始めた。

そのお陰か、障りそのものは収まった。

――が、安心院さんは障りが全くないと思っていない。

何故なら、安心院家と親族は、高齢まで生きる人間が少ないからだ。

昭和から平成で言えば、六十代後半で亡くなっている者が多い。

この平均寿命が伸びた現代なのに、だ。

それでも、安心院家とその親族は〈お参り〉を続ける。令和になった今も。

もし止めてしまったら、どうなるのか。いつまで続ければいいのか。

それは彼女にも、誰にも分からない。

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