夏に、公民館で行なった怪談会に来たお客さんは、たった一人だった。
ノースリーブの紺色のワンピースに薄淡い桃色のカーディガンを羽織った女性で、椅子に座ると「あの、他の人は?」と言われたので、私はあと五分だけ待ってみましょうと答えた。
しかし五分待っても十分待ってもその女性以外、誰も訪れなかったので、二人で怪談語りをすることになってしまった。
少し甘い生花のような香水が、女性から漂ってきた。とりあえず用意していた麦茶を紙コップに注いで渡した。
一人で初対面の人と話をするのも気の毒だなと思いながら、私はいくつか怖い話をこれからしますねと伝えると、女性は聞くよりもまず話をしたいんですと言った。
人の年齢を推測するのは苦手でよく外すのだけれど、パッと見た感じでは、私には二十代の半ばぐらいに見えた。自己紹介をしましょうかと言ったところ、二人だしいいじゃないですかと断られてしまった。
「妖刀ってあると思います?その話をしたいんですが」
「あの、手にすると人を切りたくなるとか、そういうのですよね。切れ味の鋭い刃物を手にしたら、試してみたいと思うかも知れないけど、妖刀があるかどうかは分からないですね」と私は質問に答えた。
「実はわたし、刀を振り回している人を見たんです。今日その話をしたくって来たんです。
でもね、その振り回している人をよく見るとそれ、刀じゃなくって腕だったんです。長い腕を、タオルをライブ会場で振り回すみたいに、ぶんぶん振り回してて。でも、腕が時々刀にも見えて。
なんだろう、あれ?ってじっと見てたんです。怖いとか、不思議やなとかって気持ちは無くて、何してるんやろうって。あのう、とを声かけたらパッと消えたんです。それで、ああ、あれ幽霊やったんやって。
家に帰って母に、今日幽霊見てんって話したんです。えらいハッキリした幽霊やった堀江の交差点で見たよ。なんやろあれ、って。
母は私の話を聞くと、堀江六人斬り事件があった場所やからって、怖がらせようと、しょうもない嘘ついてって言うんです。
わたし、そんな話聞いたこともないし、知らなかったし、本当に見たのに母に信じて貰えなかったことがショックで、そう伝えたら、堀江六人斬り事件について教えてくれたんです。
明治三十八年に中川萬次郎って人が、奥さんの駆け落ちが原因で錯乱状態になってしまって、同居していた家族五人と養女を刀で滅多斬りにして殺害したんです。
でも、切りつけられた六人の内、よねという養女の子供だけが、両腕を完全に切断されていたけれど生き残って、堀江事件の犠牲者の魂を鎮めるために、尼さんになったらしいんです。
その事件が実際にあった場所が、私が腕か刀みたいなものを振り回すお化けを見た場所と同じだったみたいなんです。
話を聞いてから別の日に、母と一緒に腕か刀か分からないけど、ぶんぶん振り回して消えた人がおった所に行ったんです。
そしたらまた、本当にいたんですよ。母にほら、あそこにいる人見てよ、ほんまにおったでしょって伝えたんです。
母は、幽霊を見て、なんか楽しそうやなあ、刀持って傍に寄って、仲間に入れてください言うたらどうなるやろって言い出して。
わたしは悪い幽霊かも知れんからやめとこうよって言っても、聞いてくれなかったんです。
なんか、ずっと見てて、楽しそうばっかり言うんです。帰ろうって言ってもなかなか同意してくれなかったし。
その翌週、家で母が日本刀持ってにこにこ笑ってたんです。
どうしたんって聞いたら、ネットで買ったって言うんですよ。わたし、銃刀法違反になるんと違うの届け出を警察に出したって聞いたら母は、出してないって言ったんです。
なあ、これ持ってこないだ幽霊見た場所に行きたい。あんたも来てよ、断るんやったら斬るでって言いながら、ぶんぶん日本刀振りだして。
刃は多分ついてない刀なんですけど、もう怖くって。母が別人になってしまったみたいで。
もうそれ見て、冗談やなくって本気やって感じたんですけど、一生懸命母に縋り付いて、止めたんです。
行くの嫌、警察に捕まるし、絶対に嫌、冗談でもやめてお母さん。その刀も買ったところに返品してよ。それに刀にあたって、人が怪我したり死んだらどうすんのって。
何度も言ってたら母の動きがピタッと止まって刀を振り上げて、わたしを見下ろしたんです。
黙れ、お前、煩いぞ
母の口から出たのが、低い男の声だったんですよ。
刀を振り上げて凄く凄く怖かったから悲鳴をあげて外に出たんです。
裸足で近所の漫画喫茶に泊まって、翌朝家に帰ったんです。外泊はじめてだったんですけど、母からは携帯電話に着信もなくって。
警察に言うかどうか迷ったんですけど、それでもわたしが怪我をしたわけじゃないし、冗談だったかもと思って家に戻ったんです。
母は、娘が外泊して裸足で戻って来たのにケロっとしてて何も言わないんです。
わたしが、刀は?って聞いたら、なんのこと?って。
だから、悪い夢でも見たのかなって。
母がその日、仕事に出たタイミングで家中、刀を探したんですけど、わたし見つけられなかったんです。
とはいえ、わたしも家の中を完全に探しつくしたわけじゃないから、母がすっとぼけてとんでもない場所に隠してる可能性もあるんですけどね。
あの買った刀が妖刀で、手にしたから母がおかしくなったのか、それともわたしと母が一緒に見た堀江で腕か刀か分からない物を振り回してた人に、憑かれてたのか魅入られちゃったのかなって、ずっと考えてて。
お祓いに行くとかも迷ったんですけど、母は今のところ前と同じで普通なんです。
この話を誰かにしたくって、今日来たんですけど、まさか二人だけの怪談会になるとは思ってませんでした。いつもこんなに人は少ないんですか?」
私はだいたい平均は五、六人の怪談会であることを伝えた。
彼女は麦茶を飲み干すと、失礼しますと頭を下げて、去って行った。
微かに甘い香水の残り香だけが、居なくなった後もしばらく漂っていた。