前項の佳恵さん親子は、翌日、虫を捕まえた神社を探しに行ったが、鳥居もお堂も見つけられなかったそうだ。お稲荷さんだったというし、狐に化かされたのだろうか。
すると案内した少年は狐の化身ということになろうか。しかし息子さんによると自転車を漕いでいるときの彼の背中は汗でシャツが濡れており、普通の人間だとしか思えなかったという。
神社で虫捕りといえば、こんな体験談も聴いた。
およそ二〇年前、当時三八歳の田中稔さんは一〇歳の次男とその同級生の友だち三人を引き連れて近所の神社に虫捕りに行った。七月末、場所は滋賀県彦根市にある無人の小さなお社だ。子どもたちは各自の家で夕食を取り、夜の七時頃に稔さんがピックアップして、田中家所有のワンボックスカーに乗せて行った。
件の神社の参道には細いクヌギが何本か生えていて、昔からそこにクワガタがいることはみんなが知っていた。子どもたち四人は後部座席に乗ってワイワイガヤガヤと楽しそう。
参道で車を停めると、子どもらは一目散にクヌギのところへ走っていった。
周囲には自分たち以外には人影がなく、特に変わった気配も無かった。しかし住宅街から離れた鎮守の杜は暗く、参道の入口に立つ街灯の明かりだけが頼りで、独りきりなら怖くてとてもいられない雰囲気だ。
子どもたちと小一時間ばかりクワガタを探し、八時頃にはコクワガタを四匹捕まえた。
めいめいの虫籠に一匹ずつ入れてやり、車の後部座席に四人を座らせて、エンジンをかけようとしたそのとき──。
「すんまへん!ツレにボコられて怪我をしてます!助けてくだはい!」
突如、助手席の窓に若い男がすがりついて喚いた。さっきまで参道には誰もいなかったのに……。まるで幽霊のような登場の仕方だが、男は小太りで顔から汗を滴らせ、泥で汚れたTシャツを着た姿は人間そのもの、いや、確かに人間だった。稔さんは男を車に乗せてやり、次男を含めた子どもたち全員を各家に送り届けた後、地元の警察署に連れていった。
「それだけの話なんやけど、ただ、そのときの男の体臭が、葱とアンモニアと脂を混ぜたような珍しい臭いで、恐怖した人間が出す臭いやと直感しました。以来、ふとした瞬間にこの臭いに気づくようになったんよ。電車の中や雑踏で……」
人は強いストレスを感じると硫黄化合物を主成分とするストレス臭なるものを発するのだという。稔さんが敏感に嗅ぎ分けられるようになったのはそれだろうか。
「この二〇年で、あの臭いさせてる人がぎょうさん増えました。怖い時代やと思います」