大阪駅からJR大阪環状線で一駅の天満から、歩くこと数分の場所に天満市場がある。
ぷららてんまの名前でも知られる天満市場は、京橋南詰にあったものが慶安の頃に移転し、その後昭和二十年に大阪大空襲で焼けてしまったために、昭和二十四年に元東洋紡績天満工場跡地に再建されて、今に至るという。
ある日、天満市場で買い物を済ませてから、駐輪場スペースに停めてあったベビーカーを見ると黒い金具の部分に、見知らぬ老人の顔のマグネットが貼り付いていた。
老人の顎の部分には赤黒い文字で「幸福を」と書かれている。
いたずらにしてはちょっと気味が悪いなと思い、子供をベビーカーに乗せ、市場の人にこんな物が貼られていたと告げると「ああ、連絡まつ村の違うやつですね。気持ち悪かったらそこのごみ箱に捨てて行ってください」と言われた。
それが「連絡まつ村」という言葉を知った切っ掛けだった。
見るからに気風が良さそうな市場の人に、それは何かと聞いてみた。
あまりにも、知っていて当然のような口ぶりで話していたからだ。
「連絡まつ村って何ですか?」
「その顔の貼り紙知らん?連絡まつ村って書いてあって、ここにも何回も貼られとったことがあってん。扇町公園とか高架下とかこの連絡まつ村のおっちゃんのシール一杯あるけど見たことあれへんの?」
「いや、初めて見ました」
「いたずら何かほんまに人探しのつもりでやってるのか分からへんけど、何年も前からあちこちにあんで」
気になったので天満市場から扇町公園に行ってみたところ、プール近くの歩道橋の手すりやコンクリートのベンチ、電柱やガードレールにかなり剥げて色あせたものであったが、例の顔の下に「連絡まつ村」と書かれていた。
天満駅から大阪駅に向かうJRの架線沿いにも何枚か貼られており、中にはどうやってあんな場所に貼ったのか、想像もつかない高い所にもあった。
パターンは何種類かあり、老人が帽子を被っている物、被っていない物、服装も違う物、が三種類ほどあるようだった。
文字のパターンも色違いで、私が確認した範囲では六種類あった。
文字がなく顔だけの物や、顎の部分に「元気ですか?連絡待つ」とあるのや「連絡まつ村。早く!」と文字が額に書かれていた。
それにしても、この老人が誰なのか情報がないし、インターネット上で検索しても分からない。
この老人をたとえ見つけたとしても、シールやマグネットを貼った主に知らせようとしても連絡先が記載されていないので出来ない。
誰が連絡を待っているのか、どこに連絡をすればいいのか全く分からず、ただ凄い熱量で相当数のシールやビラやマグネットをそこら中に貼ったことだけが「連絡まつ村」のことを追っていて分かった。
しかし、ある日突然、あれだけベタベタに貼られていた「連絡まつ村」のマグネットもビラもステッカーも急に無くなった。
その年の秋以後、新しく貼られたものは見ていないし、前からあった物も殆ど剥がされてしまっている。残っている物も表面が摩耗していて文字まで見える物は今現在、私が確認出来る範囲では殆どない。
新しい「連絡まつ村」が貼られなくなった理由は分からない。
もしかしたら、あの老人と連絡が取れたからだろうか?