八幡の藪知らずを夜歩く男(千葉県) | コワイハナシ47

八幡の藪知らずを夜歩く男(千葉県)

千葉県の市川市に「藪知らず」と呼ばれる森がある。

江戸の昔より「迷いこむと二度と出られなくなる」と言い伝えられる不思議な森だが、意外にもその所在地は市街中心部、市役所の真ん前に位置するのだという。

E氏は、数年前までその市役所に勤務していた。

「現在は竹がずいぶんと増えましたが、私が勤めていた昭和の終わりなぞは、雑木林が鬱蒼としていてね。小さな島が流れ着いたような、何とも不思議な場所でしたよ」

それほど不思議な場所なら、やはり行方不明になった人間はいるのか。私が訊ねると、彼は「私が勤めている間に、そんな報告は聞いた憶えがありませんね」と笑って否定した。

「まあ、神社以外の敷地は立ち入れないよう厳重に管理されていますからね。そもそも出られなくなる以前に入れないんですよ」

その言葉に落胆し、取材の不発に悔しがっていると、「でもね」とE氏が口を開いた。

表情から、笑みが消えている。

「二度ばかり、奇妙な光景を目にしていますよ」

まだ職員になって日も浅い、ある夜。

「その日は年度末の処理に追われていましてね、帰りが随分と遅くなったんですよ」

ようやく仕事を終え、すっかり暗くなった市役所前を自宅へ歩いていたE氏は、ふと藪知らずの前で足を止めた。

神社の奥に見える木々の隙間を、丸坊主の男が歩いている。

「そのいでたちが、何とも妙でしてね」

男は、まるで戦中の国民服のような色褪せたカーキの衣服を身にまとっていた。季節は三月の半ばである。雪こそないものの、外套も羽織らずに歩くような気温ではない。

酔っぱらいだろうか。もしもそのまま眠りこけたら凍死してしまうじゃないか。

不安に思ったE氏は、男を呼び止めたのだという。

「もしもし、どちらへお帰りですか」

ところが男はまるで声など聞こえていないようで、ぼおっと腑抜けた表情のまま、森の中をずんずんと横切っていく。やがて男は、木々の隙間をすり抜けたかと思うとそのまま見えなくなってしまった。

路地から声をかけてみたが返事はない。冬の夜風に森がざらざらと鳴るばかりである。

にわかに、ぞっとした。

た、たぶんここを管理している人間か何かなんだ。心配いらないさ。

自身にそう言い聞かせて怖気をごまかすと、E氏はその場をあとにした。

「……と、まあこれだけなら、不法侵入者に私が驚いたというだけの話なのですが」

時計の針は、一気に三十数年進む。

「翌々月に退職を控えていた、ある夜でした」

引き継ぎの書類を作成するうち、ずいぶん帰りが遅くなってしまったのだという。

表に出てみれば、昨晩から降り積もった雪で路地は白一色に染まっている。

この風景を見るのも、あと僅かだなあ。

ひっそりと静まった夜道を歩きながら感慨に耽けっていると、ふいに足音が届いた。

あたりを見まわせば、音は藪知らずの森から聞こえている。

男が、神社の奥を歩いていた。

この時期にそぐわないカーキ色の服。短く刈りこまれた頭髪。何処か惚けた表情。

瞬間、あの時の風景を思いだした。

顔つきや衣服から見て、同じ男に違いない。では、やはり管理人なのだろうか。

「お、おつかれさまです」

そのまま通り過ぎるのも妙に憚かられて遠慮がちに声をかけた途端、はたと気がついた。

服はともかく、男は顔つきから仕草まで何ひとつ変わっていない。

そんな事が、有り得るのか。

もしかして迷っているんじゃないのか。

あの男は、ずっと迷っているんじゃないのか。

呆然としているうち、男はやはり森の奥へ姿を消してしまったという。

「それから何度か、夕暮れに藪知らずを見に行きました。いやあ、夜はさすがに怖かったもので。けれど……以来あの男には一度も遭遇していません」

もう一度見たいような、二度と見たくないような……何とも複雑な気分ですよ。

E氏は静かに笑って、話を締めくくった。

【藪知らず】

千葉県市川市にある森の通称。奥行き・幅ともに十八メートルほどと、決して広いわけではないが、古くから、神が住む「禁足地」であるとされており、敷地内の不知森神社以外は立ち入る事ができない。その由来には諸説あり、日本武尊の陣屋であったという説や、平将門の墓があったという説、果ては藪の中にある窪くぼ地ちから瘴しよう気きが出ているという説まで、バリエーションは多様である。黄門さまとして知られる水戸光圀公がこの森で怪異に遭遇したという逸話も残っており、のちに浮世絵師の月岡芳年が『不知の藪八幡之実怪』と題してその模様を描いている。

シェアする

フォローする