駿河の裏富士(静岡県) | コワイハナシ47

駿河の裏富士(静岡県)

A子さんは、静岡県にお住まいの主婦である。

「夫とはカルチャースクールで知り合ったんです。お互い趣味が共通だったのですぐに打ち解けて、二ヶ月でゴールイン。結婚三年目の今も、ほとんど喧嘩はありません」

そんなふたりが唯一もめるのが〝富士山〟なのだという。

先述のとおり、彼女は静岡県のS市にあるマンションで暮らしている。窓を開けると、町並みと駿河湾の彼方に富士山が見える。浮世絵や観光写真などにも使われる、いわゆる「表富士」と称される眺望である。生まれも育ちも静岡の旦那さんは、この表富士こそが最高だと言って憚らない。かたや彼女の実家は山梨県の富士五湖近く、通称「裏富士」を望む土地にあった。

「その呼び名からして聞き捨てならないんですよね。何で静岡が表で山梨が裏なのって。お札に描かれている富士山だって、山梨から見た景色なんですよ」

普段は仲睦まじいA子さん夫婦だったが、話題が「富士山」になると激しい応酬に発展するのが常だった。はなから山梨側を小馬鹿にした態度でからかう旦那さんに、「登っとう事もない人間がほんな主張しちょ」とお国訛りでA子さんが張り合う。結果、一日中口をきかないという日も珍しくなかったそうだ。

「自分でもバカバカしいとは思ってるんですけど、そこだけは譲れないんですよね」

ある朝。A子さんが朝食の支度をしていると、旦那さんが、「おい、ちょっと来てよ」と彼女を呼んだ。キッチンから首を伸ばしてみれば、旦那さんはベランダで表を眺めている。

やれやれ、どうせ表富士が綺麗だとか言うんでしょ。朝から喧嘩売ってんのかしら。

苛立ちつつ、エプロンで濡れた手を拭いてベランダへ向かい、旦那さんの隣に立った。

「え」

凹凸の激しい山頂付近。毎日見ているそれとは、明らかに異なった稜線。

窓の外にそびえているのは、紛う事なき「裏富士」だった。

「なんで」

と、呆然とするふたりの背後で、家の電話がけたたましく鳴った。慌ててリビングへ戻り、受話器をあげる。

電話は、祖父が入所している老人ホームからだった。

今しがた、眠るように息を引き取ったという悲しい報せだった。

「……はい、はい。いえ、ウチは両親とも早くに亡くなったもので親族は私だけで……解りました。このあとすぐにうかがいます……」

そっと受話器をおろす。雰囲気を察し、真横でやりとりに耳を傾けていた旦那さんが、彼女の肩を抱いた。

「おじいちゃん……今朝……」

嗚咽を堪えながら答えるA子さんに、旦那さんが「そうか……だから裏富士なのか」と漏らす。その言葉に、はっとした。

祖父は一年ほど前にS市内の老人ホームへ入所していた。独り暮らしを憂慮したすえ、頻繁に顔を見に行ける場所が良いだろうと、長らく住んだ山梨の実家から静岡の施設へ移り住んでもらったのだという。

「……この間、死ぬ前にもういっぺんだけ山梨の富士山が見たいって言ってたもんな」

旦那さんの台詞に頷いて、再び窓の外へ視線を移す。

富士山は、すでにいつも通りの姿に戻っていた。

「あれ以来、夫は〝裏富士も悪くないかもな〟と言うようになりました。おかげで唯一の喧嘩の種もなくなっちゃって……おじいちゃんの、おかげです」

A子さんはそう言って、すこしだけ寂しそうに笑った。

次の春には、祖父の遺影を持って裏富士を夫婦で見に行く予定だという。

【富士山の怪】

静岡県の富士山近辺には、数多くの怪しい伝承や史跡が伝わっている。

なかでも静岡県富士宮市にある人穴浅間神社は、富士信仰の祖である角行が最期を迎えた場所として知られている。無数の石塔が建ち並ぶ境内の一角には人穴と呼ばれる深く暗い洞穴があり、神奈川県の江ノ島に通じていると噂されている。その禍々しい雰囲気も相まって、数多くの怪異が発生する心霊スポットとして知られているそうだ。

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