ガラス障子と女の手(東京都) | コワイハナシ47

ガラス障子と女の手(東京都)

三年ぐらい前のことだ。松崎歩美さんには、五つ年下の恋人がいた。

彼は三〇歳の若さで都内一等地にレストランを開いたオーナー・シェフで、セクシーでハンサムでもあった。才覚を伴った華があり、その一方で、女にだらしなく、浮気相手からまた別の浮気相手へと乗り換えていく結果、切れ目なく恋人がいる、そういう男だった。

歩美さん自身、彼を英子という女から略奪していた。彼がほとんど異常なまでに女にモテることも、ひどい浮気性であることも、承知のうえでの交際である。

彼は、意外にも、繁華街の外れにあるボロっちいアパートに住んでいた。こんなところに住む理由は、酔狂な趣味なのか、それとも女に散財してしまうからなのか。間取りは1Kで、八畳の和室と板敷きのダイニングキッチンに、トイレと浴室が付いているだけの学生が住むような部屋で、昭和の遺物という雰囲気だった。

彼は女と寝るときは、和室とダイニングキッチンの間のガラス障子を必ず閉ざした。

ガラス障子とは、紙の代わりにガラスが嵌っている障子ふうの引き戸のことだ。昔はよく見かけたが、最近ではだんだん少なくなってきたかもしれない。ガラス障子のガラスは、一般に、磨りガラスや凹凸ガラス(型ガラスとも呼ばれ、浴室に用いられることが多い)になっているが、歩美さんの彼氏の部屋のガラス障子も、凹凸ガラスだったそうだ。

歩美さんは、毎週金曜日の夜にここに泊まっていた。彼は、自分の女をレストランの最後の客にして、たらふく食わせてから持ち帰ることを好んだ。それもなぜか金曜の深夜に。片付けや何かを、彼は決して女に手伝わせなかった。歩美さんは、黙々と働く彼の姿をさりげなく目で追いながら内なる欲情の高まりを感じた。女に見つめられていることを自覚している男が示す含羞しが何よりのご馳走だったのだ。

店を閉めるのは二四時だったから、店じまいして帰宅するのは午前三時頃になった。

眠るときはいつも、彼が左、歩美さんが右という並び方で、一つの布団を分け合った。彼の方に背中を向けて、右半身を下にして寝そべると、自然とガラス障子が目に入った。

11月のとある金曜、歩美さんは深夜三時頃、件の男と腕を組んで、彼のアパートに向かっていた。アパートは大通りの角を曲がった路地にある。

いつもの曲がり角に、タクシーがドアを開いたまま停車していた。アパートに行くには、そのすぐ横を通らなければならない。タクシーがすぐにドアを閉めるものと歩美さんは予想した。誰か客を降ろしたばかりなのだろう、と。だが、なかなかドアを閉める気配がない。

やがて車内が見えるほど二人は車体に接近した。タクシーはドアを開けたまま停車していて、歩美さんの見た印象では運転手しか乗っておらず、空車のようだった。

もっとも、つぶさに観察したわけではなかった。歩美さんは、そのタクシーが停まっている辺りが漠然と怖いような気がして、後部座席が虚うつろなことを確認すると、すぐに目を逸そらしてしまったのだ。

彼が「変だな」と小さく呟いた。歩美さんは胸中でうなずいた。空車なのに、長々とドアを開けているのはおかしい。

ちょうどそのとき、二人はタクシーの真横に差し掛かっていた。開いているのは後部座席のドアである──と、いきなりドアを閉めて、タクシーが発車した。

「今の見た?」と彼に訊かれた。見れば、彼は怯えた表情で、タクシーが去っていった大通りの方に視線を向けていた。少し、驚きすぎなのではないか。

怪訝に思った歩美さんは、「タクシーのこと?」と訊き返した。

すると彼は、いっそう蒼白になり、

「後部座席に、金髪のおかっぱ頭で着物を着た女が乗っていただろう?」

と、歩美さんに言うと、返事を待たずこう続けた。

「ドアが閉まる直前、女が運転席の方に身を乗り出したかと思ったら、スーッと沈みこむように消えていった」

歩美さんは、「ごめん。私、よく見てなかった」と応えた。

彼の浮気相手が待ち伏せしていた可能性がある。知っている女だからこその怯えよう、なのではないか。金髪のおかっぱ頭は、変装するためのカツラだろうか。

──可愛い男。消えていっただなんて、怪談話にしてごまかそうとしちゃって。

どこかの女が彼を奪おうとしていると考えると、歩美さんの恋心はますます燃えた。

怪しげなタクシーの一件から一週間が経ち、また金曜の夜が来た。

深夜というより明け方近くなって、急に彼が歩美さんを揺り起こした。

「今、ガラス障子の向こうを、人影が通り過ぎた」

歩美さんは内心、「またか」と舌打ちした。先週に引き続き、彼のオカルトごっこに付き合わされるのか……。

一応、凸凹ガラスを透かして見たが、ダイニングキッチンは暗くて何も見えはしない。

歩美さんは、嘘つきな彼が言うことよりも、暗闇の方が怖かった。子どもの頃から真っ暗なのが苦手で、ここでも豆球を点けたまま寝ていた。紐ひもを引いて豆球から蛍光管に切り替えると、昭和風味の白茶けた光が寝乱れた布団を照らした。ガラス障子を開けたら「ヒッ」と彼が短い悲鳴をあげたので、思わず振り向きざまに笑ってしまった。

「大丈夫だよ。ほら、なんにもいないじゃない。あなた、寝ぼけたんだよ」

「絶対に見た!女が、見つかったことに感づいて逃げていったんだ」

「ふうん。女の人?誰?」

「知らないよ!」

彼は夢を見たのだろうと歩美さんは思い、嫉妬した。英子だろうか?別の女だろうか?

明かりを再び豆球に戻して布団に倒れ込み、「怖がらせないでよ」と抱きついた。

その翌週の金曜日も、歩美さんはまた彼の部屋で寝た。

何事もなく土曜の朝になったので、「何もなかったね」と話しかけたら、「嘘でしょう!」と、彼が目を丸くしている。

「嘘って何が?」

「昨夜、ガラス障子がガタガタ長い時間激しく揺れてたから、君を起こしたじゃないか」

「……憶えてない。本当?」

「本当だよ!そしたら君は、無言のまま起きあがって、ガラス障子を見たんだよ」

「明かりは?その前に電気を点けたのよね?」

「いや、点けなかったよ?そこの豆球の明かりだけでガラス障子をしげしげと観察して、ガラスが一枚ずれてるって言ったと思ったら、また無言で寝てしまったんだよ!」

歩美さんには、そんなことをした記憶がなかった。本当に起きたのだとしたら、電気を点けないわけがない。

なぜ、つまらない嘘を言うのか、と思った。彼という男が解げせない。

言葉を探しあぐねて沈黙が下りた。ちょうどそのとき、ガラス障子が細かく振動して、カタカタと鳴りはじめた。

咄嗟に、アパートのそばで道路工事が始まったか、大型トラックが通ったのか、と、歩美さんは合理的な想像をしたが、彼は顔を引攣せてガラス障子に目を据えた。

「こんな朝から、出るんだ」

「出るって、幽霊が?きっと近くで工事でもやってるんでしょう」

「やってないよ!だって重機の音がしないだろう?」

彼に言われて、歩美さんは耳を澄ました。たしかにそういった音は聞こえなかったが、ガラス障子の揺れはもう止まっていた。

そういえば、この部屋のガラス障子はよくカタカタ言っているような気がするが。

「気のせいだよ」

「でも、ガラスが一枚だけズレてるのは本当だから、見てみなよ」

歩美さんは彼が指差そうとするのを遮って、「もう、いいから」と言った。

師走に入っても、彼と歩美さんの関係に大きな変化は訪れなかった。毎週金曜の逢瀬は、まだ歩美さんだけの特権で、彼の店は書き入れ時だったが、金曜の夜は、彼女の席が必ず確保されていた。

第一週目の金曜深夜、歩美さんは彼の部屋で悪夢にうなされた。

──自分の左隣に、不機嫌そうな背中を向けて彼が寝ている。歓心を買おうとして、後ろから彼にかじりつき、手を握ろうとした。ところが、指先が探り当てた手のようすが彼の手とは違う。骨が細くて、肉質が柔らかい。滑らかな皮膚。女だ!これは、女の手だ──

悲鳴をあげた途端、夢から醒めた。

すると、ちょうど彼も目覚めたところだったが、いきなり半身を起こして怯えた顔をガラス障子の方に向けた。

「どうしたの?」

「また、通ったんだ。ガラス障子の向こうを……長い髪の女だっ……」

言い終わらないうちに彼はくしゃみをして、「ヤダもう」と、半笑いでボヤいた。

「猫アレルギーの発作だ。ああ、止まらない」

と、盛んにくしゃみをする。歩美さんは、彼が猫アレルギーで、猫の毛が近くの空中を漂っているだけでもくしゃみが出る体質だということは知っていた。

歩美さんは厭な予感がした。猫と言えば、英子だ。あの女は猫を飼っていた。

──英子から彼を奪ったことは、うしろめたくなんか、ない。

「そう言えば、歩美と付き合う前に、毎週金曜に会っていた英子は、猫を飼っていたっけ。英子が猫の毛をつけてうちに来るもんだから、あの頃はくしゃみが大変だった」

彼は歩美さんの考えを見透かしたように、無神経に想い出を語った。

──英子の生霊が猫の毛を運んできたと言いたいんだろうけど、その手には乗らない。

次の金曜日、歩美さんと彼は寝る前に口喧嘩をした。そのせいで彼は歩美さんを抱こうとせず、布団に横になるや否や壁を向いて拗ねはじめた。しかし、しばらくするとモゾモゾと身じろぎをして、歩美さんに背中を向けたまま、「いいよ」と言った。

仲直りのチャンスかしら。歩美さんは嬉しくなり、いそいそと、「いいよって、何が?」と囁ささやきながら、後ろから彼の身体にしがみついた。

「手を繋いでもいい?」

歩美さんは布団の中に手を入れて、彼の身体をまさぐろうとしたが、蓑虫のようにタオルケットを巻きつけているため、肌に触れることが叶わなかった。

そこで仕方なく、タオルケット越しに彼の手をつかんだ。

すると間髪を容れず「どうして?」と問われた。

「さっきは直接、僕の脇腹を撫でていたよね?何かを探すような感じで……。だから僕は、君はもしかすると手を繋ぎたいのかなと思って、『いいよ』と言ってあげたんだ。すると君は、なぜかサッと手を引っ込めた。そしてこんどはタオルケット越しに手をつかむ。君って、ときどき、わけがわからないことをするよね」

歩美さんはゾッとして、「わけがわからないのは、あなたの方だよ」と言った。

「私は、あなたに触ってない。タオルケットに邪魔されて、触れないのよ!」

歩美さんは、先週の夢を思い出していた。

背中を向けて寝ている彼に抱きつこうとしたら、女の手をつかんでしまった怖い夢。あの夢について彼に話したことはない。

彼が嘘をついていないとしたら、夢と同じシチュエーションが再現されたことになる。

気のせいでは済ませられなくなった。

夢の話をすると、彼は歩美さん以上に怖がった。そのようすを見て、英子のせいだろうか、と歩美さんは悔しく思ったが、このまま放置しておけばさらに恐ろしいことが起こりそうな予感があった。

──何かを変えねばならない。

二人は話し合い、こんどの金曜日には、部屋の模様替えと大掃除をすることにした。

その日、模様替えの最中に、彼は歩美さんに小物入れを見せた。

「それ、見たことなかったわ。そういうの、持ってたんだね」

「うん。英子が落としていったヘアピンを入れてたんだ。捨てるから、見ててね」

歩美さんは、この刹那、失望と希望を同時に味わった。この男は、まだ私に隠し事をしていたのか。英子のヘアピンをひそかに持っていたとは呆れた。

──でも、捨てる決意をしたんだな。このあいだのことが、そんなにも恐ろしかったのか。

彼が、前の女のヘアピンを全部、ゴミ袋に入れるのを歩美さんは平静を装って見守った。

ところが、その後、お茶でも淹れてひと息つこうと思った歩美さんがダイニングキッチンへ行くと、床の真ん中にヘアピンが一本落ちていた。「まだ一本残ってたわ」と、拾い上げて彼に突きつけたのは、嫌みではあっても、軽い気持ちからだった。

しかし彼は恐慌をきたした。

「やめろ!出てくるわけないじゃないか!君も見てただろう?僕は全部ゴミ袋に入れた!そこの床は君が今、掃除機を掛けた!そうだよね?」

大声でわめきながら歩美さんからヘアピンを奪い取ると、あらためてゴミ袋のゴミの中に荒々しく突っ込んだ。

この夜、彼はなぜか歩美さんをアパートの部屋に残して出掛けてしまった。

家具の配置を変え、隅から隅まで磨きあげた部屋はよそよそしく、落ち着かない気持ちのまま、早めに布団に入った。

ダイニングキッチンの隅に、英子のヘアピンが埋もれているゴミ袋がまだ置いてある。ガラス障子の向こう側を、歩美さんは極力、意識しないように努めた。

彼は今晩、英子を訪ねていったのではないか。あのヘアピンのことを考えると、そんな気がしてきて厭になる。このアパートの規則が恨めしかった。自治体が定めた回収日まで、ゴミは各戸で保管する決まりだなんて……。

ガタガタガタ、ガタガタガタガタ──。

ガラス障子が激しく振動していた。歩美さんは、また夢を見ているのだと思いたかったが、物理的な騒音に容赦なく叩き起こされた。

ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ──。

豆球のおぼろげな明かりだけでも、ガラス障子が明らかに揺れているのがわかる。いや、何者かによって前後に揺すぶられていることがわかった。壊れよとばかりに。

他の物は一切、振動していない。静かな夜の底で、これだけが揺れている。

歩美さんは布団を頭から被り、両手で耳を塞いで、夜明けを待った。

振動が弱々しくなり、ついに止んだ。布団から這い出ると、曙光が窓から差していた。

根くらべに勝った!歩美さんは快哉を叫びたい心地で、ガラス障子に向き合った。

前から、ガラスが横にずれて隙間が開いているところが一ヶ所ある。隙間の横に、掌と五本の指の形がペタリと捺おされている。滲じみ出た皮脂か、それとも汗の跡だろうか。

隙間を作っているガラスは、歩美さんの顔の高さにある一枚だ。歩美さんは小柄な方だし、掌の跡は幅が狭くて小さい。

──ここに手をついて、片目を隙間に押し当て、覗いていた女がいる。

彼が見たという、髪の長い女かもしれない。

暗いダイニングキッチンから私たちの寝姿を覗き見していたのは。

ガラス障子を揺らしていたのは。

歩美さんは、ゴミ袋をアパートのゴミ集積所に置きに行った。英子のヘアピンを捨てたかったのだ。英子が諸悪の根源だったら、これで万事解決するはずだと思った。

実際、その後は彼と別れるまで、ガラス障子が揺れることはなかった。別れたのは、たった二週間後ではあったが。

彼と縁を切って数日経った頃に、変わった夢を見た。

全裸で眠る彼の身体に、沢山の女たちからの恨み言や愛の言葉が、ところ狭しと書きなぐられているのだ。

耳なし芳一のようなありさまが、哀れでもあり滑稽でもあった。乾いた笑いが込み上げて、目が覚めかけたところへ、「あーあー」と不気味な赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。

──なぜ赤ん坊が?私は彼の子を堕ろしたことなどないのに。

誰の子だろう、英子の子か、などと疑心暗鬼になりながら、朝が完全に明けきるまで、夢うつつで金縛りに遭っていたそうだ。

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