湖のざわめき(福島県) | コワイハナシ47

湖のざわめき(福島県)

数年前の夏、古川さん一家は福島県のH湖へと出かけた。

「初日はキャンプ、帰りに会津若松を見てまわるプランでした。ウチの子たちふたりは生まれて初めてのアウトドアだったから、それはもう喜んじゃって」

バーベキューにサイクリング、虫捕りに魚釣り……あっという間に時間は過ぎ、一家は夜を迎える。心地よい疲労感のなか、楽しい一日が終わる。はずだった。

「ねえねえ、お母さん、お母さんてば」

湖面を眺めながらテント脇で夫と談笑していると、五歳になる次男が駆けこんできた。次男は数分前、長男と連れ立って岸辺へおもちゃの花火を打ちあげに行ったはずである。だが、花火を終えたにしてはやけに帰りが早い。

「なあに、どうしたのよ」

訊ねてみたものの、次男は無言のまま袖を引くばかりで、なにも答えようとしない。

まさか、事故。溺れたとか。

とっさに夫と目を合わせる。

彼もおなじ想像をめぐらせたのか、すぐさま椅子から勢いよく立ちあがった。

「ちょっと、お兄ちゃんのとこへ連れてって。早くッ」

息子に先導を促し、古川さんたちは湖畔へ小走りで向かった。

「顔から血の気が引きました。うっすらと最悪の事態も想定していたんですが」

予想に反し、長男は湖のほとりにぽつんと立っていた。一見したかぎり、溺れた様子も怪我を負った形跡もない。

「ちょっとォ、もうビックリさせないでよ。てっきり溺れたかと思って……」

と、安堵感で崩れ落ちかけた古川さんたちを見るなり長男が「しっ、聞いて」と唇に指をあてた。その表情は、子供のそれと思えぬほどに真剣である。

気圧されるまま、耳を澄ます。

波が岸を打つ、ちゃぷん、ちゃぷん、という響きに混じって、奇妙な音が聞こえていた。複数の人間が会話しているような、ざわめき。雑踏か、もしくは開演前の劇場、あるいは村祭りの夜を思わせる、にぎやかな音だった。

「なんだ、これ」

夫の呟きに、長男が湖面を指さした。

「あのへんから、ずっと聞こえてるんだよ」

確かに、ざわめきは十数メートル先の水面あたりから届いている。だが、闇に包まれた湖面には人の立てるような場所などなく、船の影も見あたらない。対岸から反響している可能性も考えてみたものの、それにしては距離がありすぎるように思えた。

「それに……その声、変なんです。古いレコードみたいに籠もっていて、まるで……水の底で誰かが喋っているみたいで」

いったい、なにがおきているのか。子供ふたりを抱きかかえ、古川さんは後ずさった。

早くこの場を離れなくては──そんな思いとは裏腹に、足はまるで言うことをきかず、視線を逸らすこともできない。

湖はあいかわらず暗かった。夜と同じ色のままで、空も陸も境目がない。いままで穏やかに見えていた暗闇が、いまでは黒い猛獣のようにしか思えなくなっていた。怯える彼女を笑うように、声がどっと大きくなっていく。

「子供たちを守らなくちゃ……その気持ちだけで踏ん張っていましたが、それもいよいよ限界でした。絶叫が先か失神が先か、いずれにせよ緊張はピークに達していましたね」

膝に力が入らない。炙られたように舌が突っ張り、喉から声が漏れそうになる。

もう駄目だ。我慢できない。

叫ぼうとしたその直前、かたわらの次男がちいさく漏らした。

「たのしそうだねえ」

我に返った。

改めて、湖へ耳を傾ける。

囃したてる男の声、朗らかな女の笑い声。それらに混じって、うっすらと手拍子らしきリズムも聞こえている。

ああ、楽しいのだ。

この声の主たちは、喜んでいるのだ。

途端、目の前の暗黒にぬくもりが戻った。

「……私たちも、帰りましょ」

名残惜しそうな子供たちの手を引いて、古川さんはテントへ帰った。

「あとになって、あの湖がある場所にはその昔、村があったんだと聞きました。きっと……そこに住んでいた人たちの声かな、っていまは思っています」

その年以降、古川さんの家では毎夏のH湖訪問が恒例となっている。

残念ながら湖のざわめきを耳にしたのは、あの一度きりだそうである。

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