手料理かいさま寿司(高知県) | コワイハナシ47

手料理かいさま寿司(高知県)

その日、千鶴さんはスーパーの一角で戸惑っていた。

一匹の魚から、どうにも視線が離せなくなってしまったのである。

深夜にアパートを訪ねてくるボーイフレンドのために、夕食を購入するつもりだった。

とはいえ彼女は料理が不得手であったから、総菜売り場で適当なものを見つくろって、自宅の電子レンジで温めれば良いだろうと考えていたらしい。

ところが鮮魚売り場の前を通り過ぎようとした刹那、ちらりと目に留まった細長い魚が、どうにも気になって仕方がない。

値札に記された名前を見ればどうやら魚は太刀魚というらしいが、名前も初耳ならば、どのように調理するのか見当すらつかない。そもそも魚一匹はふたりの食卓には多すぎる。

まあ、駄目なら捨てれば良いか。食べきれなかったら、翌日にまわそう。

さんざん悩んだすえ、彼女は一尾だけ太刀魚を買った。

アパートへ着いてからも、彼女の混乱は続く。

台所へ立つなり、「寿司を作りたい」という衝動が抑えきれなくなったのだ。

千鶴さんはさすがに困った。これまで寿司はもちろん、生魚をさばいた経験さえない。なのに何故、自分はいきなり見たこともない魚を購入し、あまつさえ寿司を作ろうとしているのか。理由を考えてはみたものの、答えなど解るはずもない。そのあいだにも寿司を作りたいという気持ちはどんどんと強くなっていく。

結果、彼女は生まれてはじめて魚を三枚におろし、酢飯をこしらえると、寿司を大皿に盛りつけた。「なんとなくそうしたほうが良い」ような予感にしたがい、切りわけた身は背中の部分を下にして米に載せたという。本人いわく「はじめてにしては、そこそこの形になっていた」そうだ。

本当に驚いたのは、そのあとだった。

間もなく部屋を訪ねてきたボーイフレンドが、テーブルに並んだ寿司の大皿を見るなり「なんで、かいさま寿司を知っちゅうかよッ」と地元訛りで叫んだのである。

ボーイフレンドによれば、千鶴さんが作ったのは彼の郷里である高知県の名物なのだという。

「見た目も味も完璧じゃ、よく勉強しちゅうねえ」

やや不格好な寿司を次々と口へ運びながら、ボーイフレンドはしきりに感心している。いまさら、「よく解らぬまま作ったのよ」とも言えず、彼女は笑顔でその場をとりつくろった。

それにしたって、いったいどうしちゃったんだろ、私。

もしかして、料理の天才だったのかな。目覚めちゃったのかな。

すっかり空になった皿に目を丸くしつつ、千鶴さんは思いがけぬ才能の開花をひそかに喜んでいた。満足げな彼の表情に、しみじみと満足していた。

そして、その翌日。

ボーイフレンドは突然の交通事故で亡くなってしまったのである。

突然の別れを経験してから、五年が過ぎた。

「……不思議なことにね、私、あのお寿司の作り方をまったく思いだせないんです」

新しい恋人に恵まれたものの、彼女はあの日以来、一度も包丁を握っていない。

「また料理がしたくなったら、口にした人が逝ってしまうのではないか」という思いが、どうしても拭えないのだそうだ。

【かいさま寿司】

高知県の郷土食。「かいさま」とは「逆さま」をあらわす方言で、その名のとおり、魚の皮目を下にして米に載せるのが特徴である。用いられる魚はタチウオが主で、皮が傷みやすく、できあがりの見栄えが悪いために生まれた握り方だといわれている。

高知では、かいさま寿司のほかにも米と山菜や野菜を何層にも重ねた「こけら寿司」や、おからを酢飯の代わりに用いる「ろくやた」など、田舎寿司と呼ばれる独特の寿司が、各地域ごとに数多く伝えられている。

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