川の手エンコウ(広島県) | コワイハナシ47

川の手エンコウ(広島県)

十数年前の春先、横関さんは広島市を流れる猿猴川へ《夜のチニング》に出かけた。

「エンコウは市内を流れとるくせに、えっと(たくさんの意味らしい)魚が釣れるんですわ。なかでもワシが狙っとったのはチヌゆう魚でね。ソイツを釣りよるからチニングです」

彼が選んだ釣り場は、市民球場跡地にほど近い河岸。いわく、「潮の満ち引きで魚が集まる、ワシしか知らん穴場」なのだという。

「球場そばに来るちゅうことは、やっぱり魚もカープが好きなのかもしれんの。はっはっは」

テキサスリグというザリガニ形の疑似餌を針にくくりつけて、川へと竿を振る。

腕時計を見れば針は午前四時、ちょうど朝まずめと呼ばれる時刻を指していた。

「魚が餌食う時間じゃけん、ベストタイミングよ」

釣果を想像して、ほくそ笑みながらアタリを待つ。三分、五分、十分。しかし、暗い川にぽつんと浮かぶウキは、まるで動く気配がない。

そうしているうちに、東の空がぼんやりと明るくなりはじめた。

くそったれ、今日はボウズかのう。

舌打ちをしながら、いったん仕掛けを確かめようとリールを巻きあげる。ちいさな水音とともに疑似餌が水面に姿をあらわした、その直後だった。

ぱしぃん。

水中から伸びてきた手が、疑似餌を弾きとばした。

子供の掌ほどのおおきさをした、赤茶色の毛に覆われた腕であったという。

声をあげる間もなく、毛むくじゃらの手は再び水のなかへまっすぐに沈んでいった。

さ、猿か。それともカワウソか。

けれど、カワウソゆうんは、もう日本におらんはずじゃ。

混乱しつつも、横関さんはすぐに釣り道具をまとめるとその場を逃げた。

「そこまで怯えんでもええじゃないの、と思うかもしれんけどな。いびせい(怖い)もんよ、相手の正体が解らんゆうんは」

翌週、知人にくだんの出来事を伝えると「それがエンコウじゃ」と、あっさり返された。

「エンコウって川の名前じゃろが」

「じゃけ、名前のもとになったのがエンコウゆう生き物よ。猿そっくりで人に悪さしよるとウチの婆さんから聞いたわ」

珍しいモン見れたのう。

知人はそう言って笑ったが、横関さんはにこりともできなかったという。

「〝ワシらの川にいなげな(変な)モンぶちこむなッ〟って怒られたような気がしての」

その日を境に、明るくなってから釣りへ出かけるようになったそうだ。

【猿猴】

広島および中国地方に伝わる妖怪の一種。俗に河童の仲間として分類される。その姿は猿のように毛むくじゃらであるとされ、海や川など水辺に暮らして、泳いでいる人間を襲うという。広島市を流れる猿猴川の名は、この猿猴が棲んでいたとの由来にもとづいている。

猿猴とは本来テナガザル、すなわち猿そのものを意味する言葉であったという。京都の金地院には、絵師・長谷川等伯筆の、テナガザルが池に映った月を取ろうとする様子を描いた『猿猴捉月図』が残されている。

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