飛驒の怪談の怪談(岐阜県) | コワイハナシ47

飛驒の怪談の怪談(岐阜県)

某商社に勤める尾上氏は、やや個性的な趣味人として《その筋》では有名な人物である。書棚は古今の怪談本で埋め尽くされ、いずれの書籍にもおびただしい付箋が挟まれている。こちらが記憶している怪談を一片でも口にしようものなら「ああ、それは確か……」と、あらすじを淀みなく諳じてみせる──要は、筋金入りの怪談マニアなのだ。

そんな尾上氏だが、常日頃からちょっとばかり不満をお持ちであったのだという。

「ボク自身は、そういう怖い目に遭った経験がないんですよ。これだけ読んでいるのに、《持ちネタ》がない、それがなんだか納得いきませんでね」

愛さ余って憎さ百倍とでもいうのだろうか。怪異に縁のない我が身を嘆くうち、彼は「ぬるい話」を披露する話者に憤りをおぼえはじめたのだそうだ。

「大半は〝幽霊が出て怖かった、おしまい〟なんて安直な体験談ばかりでしょ。どうしてそれを幽霊と思ったのか、なぜ怖かったのか……恐怖の本質を語り手も書き手も理解していないのが腹立たしくてね。そんな話を読むたび〝自分が体験できれば〟という思いが、いっそう募ったものです」

そんな願いとも祈りともつかぬ思いが通じたものか、彼は先日、念願の「持ちネタ」を得るにいたった。春もはじめの話だという。

その夜、尾上氏は一冊の怪談本を抱えて帰宅した。

手にしていたのは、『新編 綺堂怪奇名作選』。明治時代の小説家、岡本綺堂による怪談小説が数編収録された作品集である。

「発売当初に買いそびれていまして、それをたまたま帰りがけの書店で発見したんです。いやあ、嬉うれしかったなあ」

逸る気持ちを抑えつつ夕食を済ませ風呂に入ると、尾上氏は携帯電話の電源を落とし、ソファに深々と座った。

「本に没頭できる環境にしないと落ち着かない性分なもので。儀式みたいなもんですね。だから、読みはじめるのも午後十一時きっかりと決めていたんです」

壁掛け時計を睨み、短針が十一の文字を指したと同時に本を開く。

静まりかえった部屋に、ページをめくる、ぱら、ぱら、という音だけが響いた。

『飛驒の怪談』は、マニアの彼にとっても満足のいく内容であったという。謎解き要素を含み、終盤には活劇めいた展開を迎える表題作、山中の一軒家で起こる怪奇を綴った戯曲「影」、英国の幽霊譚を紹介した「画工と幽霊」など、いずれも趣きの異なる名作ぞろいであったと、尾上氏は述べている。

「端正な文章が想像力を膨らませるんですよね。行ったことなんてないのに、岐阜の暗い山道がありありと浮かんできて……夢中でページをめくりましたよ」

どれほど時間が経ったものか。最後の話を読み終えると、尾上氏は静かに本を閉じた。良書を読破したあと特有の心地よい疲労感が身体を包んでいた。

ついつい読みふけってしまったなあ。これは明日起きるのが大変だぞ。

自嘲しながら、なにげなく壁掛け時計に目を遣やる。

「えっ」

午後十一時一分。

読みはじめてから一分ほどしか経っていなかった。時計が止まっているのかと慌てて携帯電話の画面を確かめ、テレビをつける。

どれも同じ時刻だった。

「よく〝まばたきしたつもりが一瞬で朝になっていた〟なんて話があるじゃないですか。でも、ボクの場合は逆でしょ。啞然呆然、狐につままれたとはまさにあのことです」

よ、読みはじめたのが九時くらいだったとか、それとも実は二十四時間経っているとか。

理屈を探す尾上氏を笑うように、壁掛け時計の長針が、がちり、と鳴った。

「……でも、あれほど熱望していた怪異に遭遇できたんでしょ。嬉しかったんじゃないですか。それとも、〝この程度の怪異かよ〟って憤慨なさったんですか」

なにげなく水を向けた私に、尾上氏は困ったような表情を浮かべてから、首を横に振った。

怖くなったのだ、という。

「はじめは興奮していたんですがね、ふと気づいちゃったんです。このあと自分は、長い長い夜を過ごさなければならないんだ、いましがたの出来事を反芻しながら朝を待たなくちゃいけないんだ……ぞっとしました。あのときほど夜明けが恋しかったことはなかったです。いや、読むのと味わうのとでは大違いでしたよ」

以降、怪談本は昼間に読むよう心がけています。

それが幸いしているのか、以来おかしな出来事は起こっていないそうだ。

【飛驒の怪談】

一九一三年に刊行された中編怪奇小説。明治時代の岐阜県飛驒山中を舞台に起こる連続猟奇事件、そして謎の怪物「山わろ」をめぐる怪奇冒険譚である。作者の岡本綺堂は、『半七捕物帳』をはじめとする大衆小説の名手であると同時に、『青蛙堂鬼談』など怪談文芸においても傑作を数多残している。『飛驒の怪談』は長らく希少本となっていたが、二〇〇八年、およそ一世紀ぶりに復刊された。ちなみに山は長野県に伝わる妖怪で、三好想山『想山著聞奇集』にもその説話が収録されている。

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