嫐うわなり(鳥取県) | コワイハナシ47

嫐うわなり(鳥取県)

「こういうのも、怪談……なんでしょうかね」

ちいさく呟いて、朝子は微笑んだ。

笑うと幸の薄そうな面立ちがいっそう悲しげになる。なんと返事をしてよいものか戸惑う私に構わず、彼女は静かに語りはじめた。

「そのころ私、ある男性と交際していたんです。道ならぬ恋……いわゆる、不倫でした」

どのような経緯でふたりが知りあい、男女の仲になっていったかは、相手のあることなので詳らかにしない。ともかく男性には妻子がおり、それを承知で朝子は彼との関係を続けた。

遊びのつもりだった。遊びという言葉が乱暴なら「いつか終わることを最初から覚悟していた関係」とするべきだろうか。相手の行動を詮索しない、ふたりの将来について訊ねない、現状に対して不満を述べない──暗黙のうちに決められた、「お別れの日」が来るまで関係を良好に保つための、いくつかの規則。

本気にならないのが《大人の愛》。そう信じていたのだと朝子は笑う。寂しそうに笑う。

そんな気持ちが覆ったのは、ある日曜だった。

買い物に訪れたスーパーで、朝子は偶然交際相手の男性を目撃した。見るからに重そうなビニール袋を抱えながら、彼は男児の手を引いている。隣には朝子と同年代らしき、けれど彼女よりもずっと快活そうな女性が微笑んでいた。ふいに、彼が空いている手を伸ばして、女性の膨らんだ腹部を擦する。その瞬間、「本気でも、子供の恋でもかまわない」と呟いていた。

それから、朝子は日曜日が大嫌いになった。

平日であれば仕事に集中できる。けれども休日は時間がありすぎた。部屋でひとり明日を待っているこの瞬間も、彼は可愛らしい子供や身重の妻と一緒に買い物をしたり、遊園地に出かけているかもしれない。自分にはけっして見せない笑顔を浮かべているのかもしれない。そんな考えが頭から離れなかった。気分転換に外出しようとしては、彼と家族のいる現場に遭遇してしまった瞬間を想像し、履きかけの靴を脱いで部屋に戻る。そのくりかえしだった。

苛立ちは言葉に換わり、不安は行動にあらわれた。遠まわしに休みの予定を詮索し、将来についての確約を求め、冗談めかして不満を口にする──そんな朝子のふるまいにも、彼は紳士的に対応した。それがまた許せなかった。取り乱してほしかった。

彼と幸せになりたい。なりたい。なりたいなりたいなりたい。

「限界でした。休日のたびに部屋で悶々としているかと思うと、耐えられなくて」

十月のある週末、朝子は旅に出た。

「逃げたんですよ。彼から。そして自分から」

鳥取県の海沿いを旅行先として選んだのに、さしたる意味はなかった。彼とゆかりの薄い、なにがあっても訪れないであろう土地を探した結果であったという。

駅前でレンタカーを借り、観光客でにぎわう温泉街へと向かう。のんびりと寛ろいで、熱い湯に身を浸して、厭なことすべてを洗い流そうと思っていた。

願いは、かなわなかった。

湯船に浸かっていても、客間で寝そべっていても、「いま、彼はなにをしているだろう」とそればかりが頭に浮かぶ。おまけに朝子は下戸だったから、酒に逃げることもできなかった。食事が済み、その日二度目の入浴を終えると、すっかりとやることがなくなってしまったのである。

隣の部屋からは、家族とおぼしき複数の笑い声が聞こえている。いずれおさまるだろうとしばらくは我慢していたものの、声はいっかな収束する気配がない。二時間ほどが過ぎて、いよいよ居たたまれなくなった彼女は浴衣から私服に着替えると、宿を抜けてレンタカーに乗りこんだ。

逃げたかった。届くはずのないメールを待ち、がらんとした部屋で膝を抱えている自分、隣室から聞こえてくる幸せそうな声、すべてから逃げたかった。何度となく涙を拭いながら、朝子はあてもなくアクセルを踏み続けた。

どれほど走ったものか。ふいに、まぶしいほどの灯りが見えた。街灯が点々とならぶ山道の向こうには白い光が点ともっており、そのなかを人々が行き交っている。

こんな夜中にいったいなにごとか。光の数メートル手前に車を停めて、歩きだした。

近づいてみると、灯りに照らされていたのが神社だと知れた。灯りの正体は境内を照らす投光器で、その周囲には人だかりができている。さながら初詣でのようだが季節が違いすぎるし、秋祭りだとしても時間が遅すぎる。

わけがわからぬまま、境内へ足を踏み入れた。

「ばんなりまして。アンタ、どげから来とう」

人の輪を覗きこむなり、傍らの老人が話しかけてきた。たたずまいから察するに地元住民のようだが、話している中身はぼんやりとしか把握できなかった。

「あの、なにかの行事ですか」

おそるおそる訊ねた朝子に向かって、老人が頷く。

「うわなりの、神事だがん」

「うわなり」

聞き慣れぬ言葉に惚けていると、老人が指を突きだして空中に文字を書いた。

「女いう字ふたつに男を挟んで、嫐。後家さんのことだがん。この神事は、男と女の争いだしこな。まあ、見てってごしない」

男と女の争い。その言葉に、どきりとした。そっと会釈をして、人混みのなかへと進む。

境内の奥には注連縄で区切られた空間があり、なかには三人の男が座っていた。まわりの会話に耳を傾けるうち、彼らは《打ち神》という役割の人間で、それぞれが前妻と後妻、夫を演じているらしいということが解った。

見ていくべきか帰るべきか、朝子は迷った。本当にこれは偶然なのかと混乱していた。彼との関係に疲れ、逃げるように訪れた先で遭遇した神事が男女の愛憎劇とは。もしこれがなにかの思し召しなのだとすれば、その《なにか》は自分に何を伝えようとしているのか。

と、戸惑っているうちに注連縄の内側が騒がしくなりはじめた。三人の男たちが、束ねた藁を手にして身構えている。なにがはじまるのかと息を吞のんで見まもるなか、やがて男らはそれぞれを藁束で軽く打ち叩きはじめた。

ぱさん、ぱさん、と軽い音が響くたびに歓声があがる。なるほど、これが《争い》を再現しているのだろうと、なんとなく理解できた。

これが《うわなり》なのか。彼女は脱力した。

男女の諍いを模した神事というからには、どれほど激しい闘争が演じられるのかと思っていたが、はじまってみればなんとも穏やかで、いささか滑稽にすら見える。ときたまニュースで目にするような常軌を逸した祭事を連想していた所為か、ひどく拍子抜けしてしまった。

ふと、現実も似たようなものかもしれないと思う。些細なことで傷つき、言葉の裏を読んでは疑心暗鬼になって、起こってもいない不幸を案じては心を乱す。本人にとって嘆くべき悲劇であっても、周囲からすれば独り相撲の喜劇にしか見えないだろう。

まるで自分だ。あの男たちのふるまいは、いまの自分自身のようだ。

空しいな。

ちいさく呟やき、なにげなく打ち神のひとりへ視線を注いだ途端、肩に掛けていたバッグが、ずるりと落ちた。

打ち神の顔が、変わっていた。道ならぬ恋の相手、あの男性の顔になっていた。

なにがおこったのか理解できず、よろよろと前へ踏みだした瞬間、もうひとりの打ち神が腕をおおきく振り、手にした藁束が、ぎら、と光った。

藁が鋭利な鎌に変わっている。いつのまに持ち替えたのか。思わず身を竦すくめたと同時に、鎌の刃先が別な《打ち神》の胸に突き刺さった。

「きゃッ」

咄嗟に目をつむって顔を背ける。一秒、二秒。しかし、いくら待っても周囲からは悲鳴も絶叫も聞こえない。おそるおそる、目を開けた。

藁束は藁束のままだった。鎌はおろか刃物の類はどこにも見あたらない。

打ち神の顔は、すでにもとの男性に戻っている。

どういうことだ。彼の顔と鎌が見えたのは自分だけなのか。ならば。もしかして。

あの鎌は、私のなかにあるのか。これは私の未来なのか。

背中が、す、と冷える。

「彼と幸せになりたい」そんな願いが、いつのまにか「私以外との幸福なんて認めない」へ変化していたことに、そのときはじめて気がついた。

なにかが急速に醒さめていくのを実感しながら、朝子は神事を見つめ続けていた。

「鳥取から帰ると、すぐ別れ話を切りだしました。もちろん未練はありましたが、〝誰かを不幸にしてまで、幸せにならなくて良い〟と自分に言い聞かせて乗り切りましたよ。彼はあっさり承諾しました。ちょっぴり……引き留めてほしかったですけどね」

現在、朝子は新しいパートナーと出会い、幸せな生活を送っている……のであれば、物語としては理想的なのだろうが、現実はこちらの都合どおりには運ばないようだ。

彼女はいまも独り身である。ときおり彼との日々を思いだして慟哭しながら、おなじ町のおなじ部屋で暮らしている。だが、それで良いのだと彼女は言う。

「あのままでいたら、私は彼とその家族に、なにかをしていたでしょうから。いまでも心が乱れると、あの夜の神事を思いだすようにしています」

堪えきれなくなったら、あの神社に行くつもりです。

ぽつりと漏らして、朝子は笑った。寂しそうに、笑った。

【うわなり打ち】

夫が後妻と再婚する際、先妻が後妻の家を襲う習俗で、室町から江戸にかけておこなわれていた(うわなりとは後妻のこと。漢字では「嫐」と書く)。先妻と後妻が互いに竹刀で打ち合い、頃合いを見計らって仲間が仲裁に入る形式が一般的で、怪我人や死者が出る場合もあった。鳥取県大山町の高杉神社では四年に一度、この習俗を模した「うわなり神事」がおこなわれる。かつて災厄が続いた折、「孝霊天皇の官女ふたりが本妻に嫉しつ妬としている所為である」と託宣で判明し、魂を鎮めるために神事をおこなったのがはじまりとされている。

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